原稿に追われ、その他いろいろな予期していなかった出来事が起こってきていて、なかなかブログの更新ができませんので、前回に関連した聖書の記事をご紹介しておくことにしました。
繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……
もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。
彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。
苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。
なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。
(新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)
使徒パウロは、あえて自分がどのくらいの苦労をしてきたのか、コリントの信者たちに神に誓って事実こうなのだと伝えています。
このくらいの苦労をしてきた上で、前回のような言葉を語っていることを知ると、いっそうその重さがわかっていただけるのではないでしょうか。
並みたいていの苦労ではありません。患難とか苦難という言葉で表現するほかないでしょう。
しかしここでパウロは、自分はそれに耐えてきたと、単なる強がりをいっているのではありません。
むしろ、自分は弱い、けれどもその自分の弱さの中にこそ神の強さが現われるのだ、といっているのです。
手紙の最後のほうで、パウロはこうもいっています。
私たちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある。
自力の強さの限界・弱さを知って、大いなるものの力に従い頼った時、人はほんとうに強くなれるというのです。
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