私を超える禅定

2008年09月17日 | 心の教育

 いろいろな仕事の合間に、断続的に『大般若経』(国訳一切経版、6分冊)を読んでいます。

 先に第6分冊目を読み終え、第1分冊に取り掛かってから、どのくらい経ったでしょう(調べてみたら、もう9ヶ月近くになっています)。

 ようやく第1分冊(六百巻のうち七十五巻まで)を読み終えたところです。

 実に多様な、豊かな学びをさせてもらっていますが、特に最後の七十五巻の「初分浄道品第二十一之一」に「六波羅蜜多に各二種有り、一には世間、二には出世間なりと」とあって、禅定=静慮(じょうりょ)にも俗世間的なものと超世間的なものがあるという注意がなされているのに感じ入りました。


 シャーリプトラが言った、どのようなものが世間的な禅定ですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修しても、拠りどころあって次のような考えをする(場合である)。私は一切の心ある生きものに利益を与えるために禅定を実修する、私は仏の教えに従って優れた精神統一に関して正しく修行している、私は禅定を実修している、等。……彼は三つの要素に執着して禅定を実修している、一には自分という想念、二には他者という想念、三には禅定という想念である。この三つの要素に執着して禅定を実修しているので、世間的な禅定とするのです。

 シャーリプトラが言った、〔では〕どのようなものが超世間的な禅定波羅蜜多なのですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとしよう、一には私が禅定を修行していると執着しない、二にはそのためにしているのだと心ある生きものに執着しない、三には禅定(そのもの)とその成果に執着しない。これを、菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとするのです。


 舎利子言はく、云何が世間の静慮(じょうりょ)なるやと。善現(ぜんげん)答へて言はく、若し菩薩摩訶薩、静慮を修すと雖も而かも所依有りて謂ゆる是の念を作す、我れ一切有情を 饒益(にょうやく)せんが為に静慮を修す、我れ仏の教えに随ひて勝等持(しょうとうじ)に於て能く正しく修習す、我れ静慮を行ずと。……彼れ三輪に著して静慮を修す、一には自想、二には他想、三には静慮想なり。是の三輪に著して静慮を修するに由るが故に、世間の静慮と為すと。

 舎利子言はく、云何が出世間の静慮波羅蜜多なるやと。善現答へて言はく、若し菩薩摩訶薩静慮を修する時三輪清浄ならん、一には我れ能く定を修すと執せず、二には為す所の有情に執せず、三には静慮及び果に著せず。是れを菩薩摩訶薩、静慮を修する時三輪清浄なりと為す。


 舎利子・シャーリプトラは、ブッダの弟子の中で智慧が最高と讃えられた人であり、須菩提=善現・スブーティは空の理解が最高と讃えられた人です。

引用したのは、この二人の問答によって、普通の、世間的な、つまり分別知に捉われた禅定と、真の、超世間的な、無分別智による禅定の違いを明らかにしている個所です。

 実体としての私が、実体としての生きものたちのために、実体としての禅定を修行するのだ、と思っている間は、本当の禅定にはならない、というのです。

 私も空、生きものも空、禅定さえも空、禅定の三つの要素も一切空つまり一切無分別となってこそ、ほんものの禅定です。

 「私は、深い禅定ができるようになって、境地が深まって、人の役にも立てるような人間になれた」などと思っているうちは、まだまだなんですね。

 道元禅師が「只管打坐(しかんたざ)」といわれたのは、そういう空三昧の坐禅ということであって、ただ坐っていればいいということではないことを、改めて大般若経を通して確認したという気がします。

 私もまだまだ、だから、これからだ、と思いを新たにしました。

 学びには終わりはない、と思います。




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コメント (6)
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