非二元段階の大乗仏教的表現
心の成長の最後の最後の段階は「非二元(nondual)」段階で、ウィルバーは次のように表現しています。
「以上が無形の元因段階であった。しかしエックハルトが言うように、元因段階が『最後の言葉』なのではない。人が、純粋な非顕現の、未生のスピリットのなかへの元因的な没入状態を打ち破ると、全顕現世界がふたたび生起する。しかし今度はスピリットの完全な表現およびスピリットそののものとして、である。無形のもの、そして顕現された形の全世界、空性と全コスモスは、ここで二つのものとして見られることはない。」(『進化の構造1』四八七頁)
この段階の話は大乗仏教の伝えようとするものの中核で、ある意味で日常茶飯事といってもいいくらい頻繁に語られています。
したがって大乗の仏典や論書からは無数に引用できますが、例えば『大品般若波羅蜜経』の注釈書である『大智度論』(伝龍樹作)には、「般若波羅蜜多の中に、或時は諸法の空を分別す、是は浅し。或時は世間の法は即ち涅槃に同じと説く、是は深し」(七十二巻)とあります。
龍樹はきわめて明快に「空がわかった(という境地)は、それはまだ浅いのだ」としており、そこにとどまらず、さらに「この世のもろもろのものがすべて涅槃つまり覚りと同じだと言える(境地)、それが深いのだ」と言っているわけです。
禅的表現
禅ではしばしばより詩的に表現されます。例えば中国北宋代の詩人・書家・政治家であり、禅者としても深い境地に達していたと評される蘇東坡の次の二行は、元因(真空)から非二元(妙有)への深まりを的確にそして美しく表現しています。
到り得て、帰り来たれば別事無し
廬山の烟雨、浙江の潮
この詩が書かれる前の段階では、自己と他者、自己と全世界・全宇宙とが元々一体であり、他と並べて「一」と数えることさえもできないので、あえて言葉にするならむしろ「空」とか「無」とでも言うほかないという境地に「到り得」たのですが、ふたたび日常的な意識に「帰り来た」ったこの段階では、ある意味では「別事無し」つまり前と同じで、「廬山の烟雨」や「浙江の潮」という対象が見えるのです。
日常的な意識つまり分別知では自分とは分離して向こう側にある対象として認識されていた「廬山の烟雨、浙江の潮」は、禅定体験・無分別智においてはまったく無あるいは空、廬山も無ければ烟雨も無く、浙江も無ければ潮も無く、もちろんそれを見ている主体・自我も無く……というふうに体験されますが、深い禅定からもう一度日常意識に戻るとそれぞれは決して分離はしていないけれどもくっきりと区別はあるものとして認識されます。
「別事無し」というのはあくまでも禅的・詩的なレトリックであり、自己と他者、自己と全世界・全宇宙との区別はありありとありながら決して分離はしていないことが自覚されているのです。
ここでは、自他分離的な観賞の対象としての「風景」が覚りの「風光」になっているといってもいいでしょう。
分離していないことつまり根源的一体性としかし個別のものがそれぞれに区別できるものとしてあることを同時に自覚している状態を、大乗仏教では「般若後得智」あるいは「無分別後得智」と呼んできました。
道元禅師の表現
禅定を実践しておられる方が体験されているとおり、深い禅定の中では分離した個々のものはもちろん自己と他者や外界との分離も意識されなくなります。
といっても、熟睡、気絶、泥酔、陶酔・恍惚のような意味での無意識になるわけではなく、ありありと目覚めています。
そうした心の状態がごく一時的なものではなく、決定的に全身心化したのが「無分別智」だといってまちがいないでしょう。
あるいは、他と分離した実体としての自分の身心というものがあるという錯覚が完全に落ちたという意味で、如浄禅師―道元禅師の言葉を借りれば「身心脱落」といってもいいのではないでしょうか。
そして道元禅師の場合、「身心脱落」体験がやがて「尽十方世界一顆明珠」や「悉有仏性」といった言葉で表現されるように、元因段階からさらに非二元段階・般若後得智へと深まっていきます。
『正法眼蔵』は全巻すべて非二元段階の智慧すなわち「正法眼」の蔵ですから、これまた無数に引用できるわけですが、私の好きな句をいくつか引用させていただきます。
尽十方界は、是(これ)自己なり。是自己は、尽十方界なり、回避の余地あるべからず。(『正法眼蔵・光明』)
而今の山水は古仏の道現成なり。(『正法眼蔵・山水経』)
而今の諸法実相は経巻なり。人間、天上、海中、虚空、此土、他界、みなこれ実相なり、経巻なり、舎利なり。(『正法眼蔵・如来全身』)
おほよそ経巻に従学するとき、まことに経巻出来す。その経巻といふは、尽十方界、山河大地、草木自他なり、喫飯著衣、造次動容なり。この一一の経巻にしたがひ、学道するに、さらに未曾有の経巻、いく千万巻となく出現在前するなり。(『正法眼蔵・自証三昧』)
非二元段階の普遍性
しかし重要なポイントを繰り返すと、こうした非二元段階に達したと思われる聖者・覚者は、仏教だけではなく、広くキリスト教、ヒンドゥー教、さらにはユダヤ教、イスラム教などの「神秘主義」と呼ばれる流れの中にも存在しているのです。
ただ大きな違いは、非二元段階が存在しそれを目指すことが、仏教やヒンドゥー教では正統であるのに対し、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教ではしばしば異端とみなされてきたということでしょう。
しかし、それらの宗教の中でも、たとえ異端とみなされ時に迫害されることがあっても、神秘主義的な流れは決して絶えることはありませんでした。
また現代では、それらの宗教の神学者たちの中でも、自らの属する宗教の神話性が近代合理性の批判に耐ええないのではないかという反省とともに、理性を含んで超えるものとしての神秘主義的伝統の真剣な見直し・再発見がなされつつあります。
そのことは、この段階への発達が元因段階同様、仏教内部だけで起こる特殊かつ特権的なことではなく、人類の心の普遍的な可能性だと考えられることを示しているのではないでしょうか。
非二元段階と環境問題
そうした非二元的な意識においては、自己と世界・環境とは区別はできても分離していない・分離できない一体なるものですから、環境を大切にすることは自己を大切にすることと同じです。逆にいえば環境を破壊することは自己を破壊することと感じられます。
そして、人間も含むすべての生きとし生けるもの・一切衆生が境環破壊によって受ける様々な被害・苦しみは自己の苦しみと感じられるため、他人事ではない身に迫った課題として環境問題に取り組まざるをえなくなるでしょう。
次回・最終回は、連載全体のまとめとともに、「現代の菩薩は、智慧と慈悲の実修―実践として必然的に環境問題に(も)取り組むことになるだろう。そしてそれは環境問題の根源的な解決のための大きな弾みになるはずだ」という結論を、『大般若経』の菩薩論などを参照しつつ書かせていただきたいと思っています。
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