先日、「持続可能な国づくりを考える会」で、高木仁三郎『原子力神話からの解放――日本を滅ぼす九つの呪縛』(講談社α文庫)の勉強会を行ないました。
そのまとめの話をする準備のために読み直しながら、改めて「近代人はとんでもない技術を生み出してしまったのだな」と、腹の底にまでずんと響くような衝撃を感じました。
前に読んだ時は全体をやや平板に単に知的に納得していただけなのが、今回は、特に根本的なポイントにスポットが当たった感じで、重い痛みが全身に拡がるような絶望感に近いものがあったのです(私はどんな状況になっても絶望はしないことに決めているので「絶望」ではありませんが)。
今、半数以上の国民の思いに関わりなくきわめて望ましくない結論が強硬に出されそうな大飯原発の再稼動問題を含め、一般に耳にする原発議論では、そもそも2つの根本的な点が十分押さえられていないと思ってきました。
第1は、放射線のエネルギーは生命の基礎であるDNAの分子結合のエネルギーの数十万倍から数百万倍もあって、したがって放射線が当たると分子結合は簡単に切られてしまう、つまりDNAが壊される、という点です。
ですから、放射線は原理的に、どんなにわずかでも危険がまったくない、「○○ベクレル以下は安全です」とは言えないということです。
にもかかわらず、ある程度までの線量では人間がばたばた倒れるわけではないのは、DNAにかなりの自己修復能力があるからであって、だからといってDNAにダメージを与えてもいいはずはありません。
とりわけ、放射線の力は距離の2乗に反比例するので、外部被爆ももちろん危険ですが、体内という至近距離での被曝、つまり内部被曝が非常に危険です。
DNAの自己修復能力を超えた被曝は、必ず生命に深刻な危険をもたらします。
第2は、「自然界にも放射能はある」という話ですが、それは「自然核種」と「人工核種」を混同した議論だと思われます。
生命の40億年という長い時間をかけて、生命は自然界にある種類の放射線には適応してきた、あるいは適応できた種が生き残ってきたようです。
しかし、これまでであったことのない人工的に作られた放射能には適応能力がないのです(市川定夫氏の説で、非常に説得力があると思います)。
この2つの点を押さえただけで、大量の放射性廃棄物を生み出し、そして何かあればそれを外部に放出してしまうような、生命にとってあまりにも危険な原子力技術は、軍事利用はもちろん「平和利用」もできない、すべきではなかった、と断定できるでしょう。
今回、さらにより根本的ともいえる第3のポイントが心に突き刺さるように理解できました。
それは、原子力技術以前の世界では、「私たちの日常世界は化学的な変化の世界であり、しかもそれは、生物の進化に至るまで同じであるということが、とくに最近、生物を物理や化学の目から見たときに明らかになってきました」(『原子力神話からの解放』31頁)
そして、そういう日常世界の安定性は化学的変化つまり分子結合の安定性、さらにはその基礎である原子の安定性によって支えられていたのです。
ところが、核・原子力の技術は、その原子の安定性を壊すことによって膨大なエネルギーを取り出すという、日常世界の安定性を根底から覆すようなものだったのです。
つまり、核・原子力技術の登場は、それまでの原子の安定性に基づいたある限度のある化学反応のみだった自然界に、まったく異質なものを持ち込むということを意味したのです。
それは、「核技術以後の世界は、もはやそれ以前の世界とはまったくと異質な世界になってしまった」と言っても全然大げさではないほどのことです。
残念ながら時間は後戻りができませんが、核技術の開発はほんとうはやるべきことではなかったのではないでしょうか。
そして、開発初期の科学技術を過信した空頼みとまるで違って、放射性廃棄物の無害化処理の技術は現在でもまったくといっていいほど開発が進んでいないままです。
生命にとってまさに致命的に危険な放射性廃棄物が、たとえ今以上の放出は止められたとしても、無害化できないまま膨大に累積していく、というのが原発の根本問題です。
こうした原子力=核技術の3つの根本的で重大な危険を認識すれば「原発再稼動」などありえない話だと思われます。
この夏の電力の問題は短期の問題ですが、核技術の致命的な危険は人類の生存に関わる中長期の最優先課題であるはずだからです。
形式的合法性に乗っかって再稼動を推進することには、人類史的正当性はまったくないどころか、あえて言えば人類に対する深刻な犯罪だとさえ言えるのではないか、という気がしています。
以上は、もちろん岡野の個人的見解です。どうぞ、賛否どちらであれご意見をお寄せください。
原子力神話からの解放 -日本を滅ぼす九つの呪縛 (講談社プラスアルファ文庫) | |
クリエーター情報なし | |
講談社 |