「近代科学と無神論」から「現代科学と宗教のエッセンス」へ

2012年09月10日 | コスモロジー

 『コスモロジーの心理学』(青土社)の最後の方で、「筆者が、科学の専門家でないにもかかわらず・でないからこそ、あえて現代科学のコスモロジーの話をするのは、まず、現代人の多くは科学の権威を非常に信頼しているので(科学主義・科学信仰という行き過ぎの面もありますが)、現代人に向けてニヒリズムを克服し人生の意味と自信を再発見できるようなコスモロジーを提案するには素材として科学の成果を借りることが最も有効だと思われる、というきわめて臨床的・実践的、実用的(プラクティカル)と言ってもいい理由からです。」(289頁)と書きました。

 そして、『コスモロジーの創造』(法蔵館)では、「本来宗教の核にあったのは、人間のいのちは、どこまでも人間のいのちでありながら、人間自身が生み出したものではなく、人間を超えた、より大きなものによって生まれたものだ、という感覚だったのではないだろうか。『生きることは生かされて生きることである』『私より大きな何者かが私を生かしている』という直感、さらに、人間だけでなく、生きているものもそうでないものも、すべてのものがより大きな全体(神、仏、自然、宇宙)に包まれているという根源的な人生の目覚めが、宗教の核にあるものだと思う。/包んでいる何か全体なるものを『神』『仏』『ブラフマン』『アラー』『道』…と呼ぶか、あるいは『自然』または『宇宙』と呼ぶかは、本質的な問題ではない。」(35頁)と書いています。

 前期授業の始めと途中で、「『近代科学は本質的に無神論であり宗教と対立するが、現代科学と宗教のエッセンスは調和する』というのが、この『現代社会と宗教』という授業の1年間の最終的結論です」と予告するのですが、前期終了の段階で結論を先取り的に理解してくれる「一を聞いて十を知る」ような学生がいます。

 以下は、その2つのケースです。



 H大学社会学部1年男子

 私の中では、神の存在は失われ、信じられる考え方は何もなかった。

 しかし、現代科学のコスモロジーは違った。

 科学は現代において、まだ信じられるものである。

 科学的な根拠も示されているのでより信じることができる。

 現代科学のコスモロジーを信じようと思った。

 私は宇宙の一部であることに感動を覚えた。

 137億年は途方もないくらい長い時間であるけれど、身近に感じた。

 死んだら終わりと、今までは考えていたが、終わりではないことを知った。

 私は一種のエネルギーであり、死んでもエネルギーなのだ。

 「死ぬ」という表現はあまり良いものではないのかもしれない。

 「死ぬ」はネガティブなイメージを含んでいるからだ。

 しかし、死んでもエネルギーは生きているのだ。

 私たちは、宇宙の一部であり、その流れに乗っている。

 死んでも終わりではないことはなんとすばらしいことだろうか。

 私は、宇宙に対してなにかできるだろうか。

 宇宙のためになることをしたいと思う。


 H大学社会学部3年男子

 正直言って、初めてこの本を読み先生の話を聞いた時は、スケールが大きすぎてついていけず、まるで何かの新興宗教のような全くもって非論理的な考えだと思い、気にも留めていなかった。

 しかし、ある日夕食を食べているときに「あ、今食べてる肉や野菜も何かしらいのちのつながりがあるのか」ということをふと考えた。

 その時から周囲の人々や事象、自然とのつながりを少しずつ意識するようになり、私の考え方も変わっていった。

 宇宙のすべてがつながっていると考えると、その中の一部であっても存在していることに意義を感じ、生きていることが素晴らしく思えてきて、少しずつではあるが、毎日が楽しくなってきた。

 宇宙のつながりは現代科学に基づいていることも考えてみると、「非論理的」と切り捨ててしまうことは近代科学的な考え方であり、自分はエゴイズムの塊であったと反省している。

 私は先生ほど学も足りずまだまだこの考えについての見識も浅いが、少し意識するだけでもここまで考えが変わったので、今後も考えることによって人生が楽しいものになればいいなと期待している。

 近代科学史観に囚われていた自分から脱却する機会を与えて下さり、先生には本当に感謝しています。

 半年間ありがとうございました。



 確かに何かというと「宇宙」という言葉を持ち出す新興宗教があるために、私も「宇宙」と言うので、当初しばしば「うさんくさいおじさん」と思われたり、「新興宗教みたい」と思われたりしますが、それはコスモロジーの転換・移行期には当然あることでやむをえないと覚悟しています。

 しかし、順を追って根拠を話していくと、これまでの多くのケースも上のケースもそうであるように、非常に多数の学生が「なるほど科学的根拠があるんだ」と納得してくれます。

 そして最初のケースの学生のように「現代科学のコスモロジーを信じよう」という気持ちになることもしばしばあるようです。

 一言だけコメントしておくと、科学の語っていることはどこまでも仮説ですから、宗教の教義のように絶対視する必要はありませんし、するべきでもありません。

 ただ、標準仮説・定説であれば、かなりの蓋然性をもってとりあえず信頼・信用しておいていいだろうということです。

 現代科学のコスモロジーを「信仰する」のではなく、「信頼・信用する」ことによって、ニヒリズムを克服し、人生の質を高めることができることは、これまでの多数の学生の報告によって、ある種実証されていると言っていいと思うのですが、読者はどうお考えでしょう?




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