第十三願は、「無上中下家族差別の願」である。まったく平等な社会・仏国土には、もちろんのことそれを構成している家族にも上流・中流・下流の格差があってはならないということである。
……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏の国土の中にはこのような下流・中流・上流の家族の差別がなく、一切の有情がみな金色に輝いて美しく人々が見たいと思うような最高に充実した清らかな様子になるようにしよう」と。
貧しくて見た目も汚れてみすぼらしい下流階級がいるような国は、仏教精神の国ではない。そういう意味で、聖徳太子以来、建前としては日本はそういう国であってはならなかったのである。格差社会は日本という国のあるべき姿ではない。西洋由来の民主主義とかヒューマニズムももちろん一定の意味や有効性があると思うが、それと並行して、あるいはそれ以前に、私たち日本人は、この仏教の理想を思い出したいものだ、と筆者は思う。
今、心の乱れから発生していると思われる様々な出来事の多発する状況のなかで、何よりも必要なのは、日本の精神的伝統の中核にあった大乗仏教がこんなに高い理想を掲げていたのだということを思い出すことではないだろうか。「こういう国を目指したくて『十七条憲法』が書かれたのではないのか。そのために日本のトップリーダーは仏教を国教にしたのではないのか。そのことを思い出そう」と言いたい(拙著『「日本再生」の指針――聖徳太子『十七条憲法』と『緑の福祉国家』』太陽出版、参照)。
先取りして言うと、第十五願では、驚くべきことに菩薩の建設する仏国土には人々の自由を拘束する君主・独裁者は存在してはならないと述べられている。
身分・階級の差別がなく、格差もなく、独裁者もいない、貧しく不幸な人は一人もいない、お互いが恩恵を与え合う、花園のように美しい国を創ることを大乗の菩薩は目指すのだ、と『大般若経』にはっきりと記されている。
そして、それを実現するためには、まず求道者・菩薩自身から始めて人々すべてが六波羅蜜を実践して、心を成熟させていく、浄化していくことが必要なのである。
『大般若経』からそうしたことを読み取ることができた時には、大きな驚きと喜びがあった。これこそ古来日本国の目指すべき理想だったのだ、古代日本にはそういう高い国家理想があったのだ、これは私たち日本人が根拠をもって誇りうる歴史的原点なのだ、と。