ところで、「人間は宇宙が137億年かけて作り上げてきた作品だ」、そして少し先取りして「労作だ」とも言いました。
しかしよく考えてみると、作品といっても傑作もあれば失敗作もあります。
いったい人間はどちらなのでしょう?
「傑作」とか「労作」というに値するのでしょうか?
人類史のポイントをごく大まかに見てみましょう。
(この年表は、セーガンのものに増補訂正を加えたものです。数値は宇宙150億年といわれていた時のものですが、大まかな感じはつかめると思います。)
12月31日の詳細
11時59分16秒 農業の発明、奴隷制の発生
11時59分33秒 新石器文明、最初の都市、森林破壊の始まり
11時59分49秒 シュメル、エブラ、エジプトに最初の王朝、占星術発達
11時59分50秒 アルファベットの発明、アッカド帝国
11時59分51秒 バビロニアのハンムラビ法典、エジプトの中期帝国
11時59分52秒 青銅鋳造、ミケネ文化、トロヤ戦争、オルメカ文化〔大型彫刻を残したメキシコ 文化〕、羅針盤発明
11時59分53秒 鉄鋳造、アッシリア帝国、イスラエル王朝、カルタゴ創設
11時59分54秒 老子、孔子、ソクラテス、イザヤ、エレミヤ、ゴータマ・ブッダの登場
11時59分55秒 ユークリッド幾何学、アルキメデスの物理学、プトレマイオスの天文学、ローマ 帝国、イエスの誕生、大乗仏教の興隆
11時59分57秒 インドでゼロと十進法、ローマ没落、イスラム帝国
11時59分58秒 マヤ文明、中国の宋朝、ビザンツ帝国、モンゴル帝国、十字軍
11時59分59秒 ルネッサンス、ヨーロッパと明朝による探検航海、科学での実験の方法
現在すなわち新年 理性・人権思想・科学・技術・産業の発達、植民地化-地球化、世界大戦、 核兵器、環境破壊
こうして見てみると、人間は、文明の始まった時にはすでに身分制、奴隷制をつくって、人が人を支配・抑圧・搾取するということを行なっていたようです。
これは、どう考えても、あまりいいこととは言えないのではないでしょうか?
そして長い間――たぶん5000年以上1万年くらい――そういうことを続けてきました。
すべての人には生まれてきただけで人権があるという考えや民主主義が世界的な標準になったのはごく最近のことなのです。
しかも、まだ世界中で完全に実現されてはいないのですね。
一方では、人権のなかでも最低限であるはずの生理的な意味での生存権さえも十分保証されていない飢餓状態の人々が多数いる国々があり、もう一方では食べすぎてダイエットをしなければならない人のたくさんいる国々もあります。
これでは、世界的な規模で平等・公平・公正が実現されているとはお世辞にもいえないではありませんか。
また、古代の帝国の誕生はいうまでもなく戦争の結果です。
残された文化遺産を見ると、確かに「輝かしい」と表現されるような面も確かにあるのですが、それらを作るための富の相当部分は戦争と搾取によって獲得されたもののようです。
しかも、おそらくそれ以前の部族、氏族国家の頃から、人間は戦争をし続けてきたらしいのです。
日本はここ50年あまり直接戦争に関わっていないので実感がないかもしれませんが、特に20世紀、人類はかつてない規模の世界戦争を2度も行なっています。
そして、21世紀になっても、人類全体としては戦争を完全にやめることはできていません。
それどころか、幸いにして広島と長崎以後は使われてはいませんが、いまや人類が何十回も絶滅・自殺できるほどの核兵器があるようです。
もちろん、国際連盟、国際連合、その他、様々な世界平和の努力は行なわれてきています。
幸いにして、今のところ、大規模な全面戦争は行なわれていません。
しかし、「紛争」や「テロ」という名前の小規模の戦争は以前として収まらず、全面的な戦争の廃絶-恒久平和という人類の理想はなかなか実現するようには見えません。
さらに、農業の発明以来、人間は様々な技術によって、自然をコントロールし、豊かな生活を作り上げてきましたし、その富を基礎にして様々な芸術・文化も創造してきました。
しかし、古代文明は例外なくといっていいくらい、森林を滅ぼして自滅したようです。
「文明の後には砂漠が残る」という言葉さえあるくらいです。
特に近代文明は、2~300年の産業活動によって、自然を汚染し、自然資源を使いつくし、人類自身の生きる基盤を壊そうとしているのではないか、と私には見えます。*
人類の文明の繁栄は、どうも、自民族・自国民の搾取か、他民族・他国民の侵略・略奪か、さもなければ人間以外の自然の侵略・略奪・破壊によって築かれたという面があることは否定できないのではないでしょうか?
こうして人類史をおおまかに見ただけでも、いったい人間は宇宙の傑作なのかそれとも失敗作なのかという疑問が浮かんできませんか?
その答えは、当然、みなさんそれぞれが出すべきものですが、次回、最後に参考として筆者の解答例をお話しすることにしたいと思います。
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わたしは優秀作と見ます。
ありがとうございました。ウスイツカサ
「傑作」か「失敗作」かの評価基準は何か?
生物学的には大脳新皮質による新しい機能(知性とか)を付与されそれを駆使して食物連鎖のトップに君臨している訳ですから間違いなく「傑作」でしょうね。遠い未来、私達とは違う知的生命体が人類を評価して「我々と同じ知性を持ちながら、それを生かしきれず生物学史上稀に見る早さで自ら絶滅した愚かな生物」と見るかもしれません。宇宙的に見ると、過去に絶滅し現在に繋がっていない生物達も含めてすべて未来への道程、必要なプロセスと見ることができますので「傑作」も「失敗作」も無いのかもしれません。
以上です。
どうもありがとうございました。
ただ、流れとしては紆余曲折を経て「傑作」に向かっているのではないでしょうか。
全宇宙的にみれば、私たちが破滅することも究極的にはオッケーなんでしょうけど…。
では、なんのために宇宙の進化の過程で人間は「言葉」が使えるようになり、「心」を持つようになったのか?
それは、人間が自助努力で困難を切り開くことができるようにと、宇宙から与えられたプレゼントのような気がします。傲慢な言い方かもしれませんが、人間はあらかじめ決まった宇宙進化のストーリーを含んでさらに超え出る可能性を秘めた存在だと思うのです。
その能力を人間は今のところ、目先のエゴの欲求を満たすために使ってしまい、自ら墓穴を掘ってしまっている。
大局的なベターな方向性に、私たちが気付き、それに沿った行動を取っていけば、瀕死の状態の地球環境ひいては宇宙を、再創造できるのではないでしょうか。
そして、同時にニヒリズムによって失われつつある、豊かな精神性を取り戻すことができるのではないかと思います。
ありがとうございました。
道中の無事をお祈りします。良いご旅行を!
傑作と思いたいですが、人間は自分で自分を苦しめている歴史や現状を知るにつけ、失敗なんだろうか、と思ってしまいます。
でも自らを失敗作とは言いたくないですし、複雑な気持ちです。
>東の回廊さん、なるほど、必要なプロセスとして見ると、傑作も失敗作もありませんね。それはそうですが、でも、今後、努力しだいである意味で傑作になれると思いますので、やっぱりみんなで努力したいですね。
>リラさん、お気持ち共感します。人間のダメな部分を見ると、そういう気がしますね。でも、どちらかというと、すばらしい部分を意識的に見るようにしませんか?
>chai さん、「今のところは悪がき」とはうまい表現ですね。そうですね、かなりの悪がきの面がありますね。早く、ちゃんとした大人になりたいものです。
一つ一つのつながりが、明確になり、今日は何を勉強し、学んだのか9歳と11歳の子供達と散歩しながら話します。言いたいことは深いのですが、いつも母さんは何を勉強しているの?と聞くので、宇宙のことと答え、少しだけお話しします。話したいことにはまだほど遠いところで終わるものの、断片的な事実だけでも話すとき、喜びと感動をもって話し、草木を見つめ、空を子供達と見ながら”宇宙の年、140億年”を話します。
家に帰り、9歳の娘が子供百科事典を取り出し、宇宙のページを開いて、お母さんのところへ持ってきて見せてくれました。私は、お母さんであることの喜びと、人間であることの喜びと、様々な喜びに包まれました。
それでも、内紛や戦争や、宗教の違いで憎みあっている人間同士、人種の違いでも今でも憎みあっているのですが、この憎み合う人間の姿も現実としてみるとき、このコスモロジーで人々は憎しみや怒りを越えることができるのだろうか、、、不安です。こちらの人々は、それはいい考えだ。と思想、思考をよいと認めることと、実際にとる行動は別物と、なんのわだかりもなくやる人が多いと見えます。対立する人間の憎しみや怒りの鎖を全て断ち切ることができるとは思えないのが本当の気持ちです。
こうした様々な対立構造は続きながら、微妙な共生のバランスをとっていくのでしょうか。
また、この先を勉強します。
先生、ありがとうございます。
お返事がいつも遅くて失礼しています。
この夏休みは事務所が事情で急に移転をせざるを得なくなり、おお忙しで、あまり夏休みになっていないのです。
学んでいただいたことをお子さんに伝えておられるのですね。
大切なことが子どもに伝わっていくのはほんとうにうれしいことですね。
「対立する人間の憎しみや怒りの鎖を全て断ち切ることができるとは思えない」というお気持ち、とてもよくわかります。
でも、こうした質問をいただいた時によくお答えするのは「問題は、できるかできないか、ではないんじゃないでしょうか。私が、あなたが、したいかどうかのほうが大事だと思うんです。そして、したいのなら、できると信じてしまうことです。物事は、できるかできないかと疑いながらやるよりも、できると信じてやるほうが、実際にできる確率が高くなるからです。なので、私はできると信じることにしています」ということです。
そして、仏教とりわけ唯識や人間性・トランスパーソナル心理学などを学んできて、人間にはその可能性はあることを確認・確信しています。
ぜひ、さらに学びを続けてください。