*筆者は体調を崩しており、なかなか記事の更新が出来ず、残念に思っています。
そんな中、以下の文章は、ずいぶん前に掲載したもので、過去記事の中に埋もれてしまっていたのですが、最近読んでくださった読者があったのをきっかけに、私も読み直してみて、多くの未読の読者に今こそ読んでいただきたいと思い、再掲させていただくことにしました。
「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんだろう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。
*例えば戦争、例えば犯罪、例えば貧困や差別、例えば環境の異変……
私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、記事を書いた時点でも今でも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってしまうこともあります。
しかし唯識を学んで以来、意識がちゃんとしているときには、けっしてそういう疑問は浮かんできません。「これは、〔残念ながら〕当たり前のことが起こっているだけだ」と。
人間がマナ識――自我(たち)を実体視し中心視している無意識の領域――を抱えた存在である以上、煩悩――自分も悩み人も悩ませること――が起こるのは当たり前なのです。
〈意〉には、二種類ある。……二つめは、汚染された〈意〉で、常に四つの〔根本的な〕煩悩を伴っている(相応)。それは、一、身見(我見)、二、我慢、三、我愛、四、無明(我癡)である。この識は、他の煩悩の識の発生源(依止)である。……/一切の時に我執は生起しており、善、悪、無記、すべての心の中に遍在している。
(『摂大乗論現代語訳』四四~五頁)
すでに学んできた方には復習になりますが、大切なことは何度でも繰り返してしっかり心に染みさせる(多聞熏習・たもんくんじゅう)必要があるので、学びなおしてみましょう。
他と分離しそれだけでいつまでも存在するようなものは何もない(無我・非実体)というのは、仏教がいおうというまいと、普遍的な事実です。
ところが、私たち人類のほとんどは自分は自分だけでいつまでもいられる実体であるかのように深く思い込んでいるようです(無明、我癡・がち)、それどころか、他と区別はできても分離できない身体が実体としての自分であるかのように思い(身見・しんけん、我見・がけん)、それを頼り・誇り・拠りどころ・硬直したアイデンティティにし(我慢・がまん)、それをすべての中心にしてとことん愛着・執着(我愛・があい)しています(個人的、集団的エゴイズム)。
そこからいやおうなしに、怒り、恨み、ごまかし、悩み・悩ませること、嫉み、物惜しみ、だますこと、へつらい、傷つけること、おごり、内的無反省、対他的無反省、のぼせ、落ち込み、真心のなさ、怠り、いいかげんさ、物忘れ、気が散っている状態、正しいことへの無知という二十の煩悩が発生してくるのです。
人間がマナ識(深層のエゴイズム)に動かされているかぎり、自他にとって嫌なことは必ず発生する。そこに何の不思議もありません。
学生時代、善意で始まったはずの、例えばフランス革命がテロルにおわり、ロシア革命がスターリニズムに終わり、志で始まったはずの明治維新が昭和の軍国主義に到ってしまう……のはなぜか、深く考え込んでしまったことがありました。
しかし、唯識の語ることをしっかり理解できてからは、そういう疑問はさっぱりと解消されました。「これは当然のこと、ありえないことではなく、ごくふつうにありうること、仕方ないこと、必然的に起こることなんだ」と。
もちろん、理解できたことで問題が解決したわけでも、あきらめたわけでも、嘆きがなくなったわけでもありません。
しかし、解決の糸口-方向性だけはしっかりとつかめたと感じています。
私から始まりすべての人に広がる「アーラヤ識‐マナ識の浄化」です。
唯識は、「それはできる。しかし三大カルパという膨大な時間がかかる」と言っています。
しかし、たとえ信じられないほど長い時間がかかるとしても、滅びたくないのなら、やるしかないでしょう。
*そして、今では、諸セラピーの統合によれば、アーラヤ識‐マナ識の浄化=人間性・仏性の開発には絶望的なほど長い時間はかからないと考えるに至っています。もちろん促成栽培は無理だとしても。
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