「死んだら終わり」から「生命は生き続ける」へ

2017年10月31日 | コスモロジー

 前回の記事「死の怖れとコスモロジー教育」にたくさんの読者がアクセスしてくれました。
 
 有難うございました。

 リンクしておいた関連記事まで読んでくださった方も少なくなかったようなので、読み返しながら、さらに他の関連記事も再録したりリンクしたりしておくともっといいと思い、以下、再録とリンクをします。

 続けて読んで参考にしていただけると幸いです。

 前の記事で「戦後教育を真に受けたら当然こうなる」と書きました。

 それについてくわしくは

 「死んだらどうなると思っていますか?」(2005年08月20日)
 「近代化の徹底とニヒリズム」(2005年08月30日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 1(2005年09月02日)
 近代科学の〈ばらばらコスモロジー〉 2(2005年09月03日)
 「現代科学のコスモロジー:そのアウトライン」(2005年10月9日)

などを参照していただきたいのですが、

 ともかく「いろいろな事情があって、日本の戦後教育では『近代科学』の大まかな成果は学校で教えられるのですが、『現代科学』の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられてい」ないのが大問題なのです。

 「近代科学は、すべてを究極の部分(ある段階では「原子」という「物質」)に分析・還元して、世界の客観的な姿を捉える努力をしてきました。…/それは、研究の方法としては、きわめて有効・妥当だったのですが、まず何よりも、「生きた現実」としての世界の姿を捉えたとはいえません。それが第1の問題点です。
 そして第2の問題点は…そうした方法で描かれた世界は、ばらばらのモノ(原子)の組み合わせでできていて、神も魂もそういう方法では検証できない以上存在しないことになったということです。
 個々人のいのちや心さえも「物質の組み合わせと働きにすぎない」ということになったのです。
 「神はいない。人間とモノだけがある」から「神はいない。モノだけがある」というところまでいった物質還元主義(唯物主義)な科学の目で見ると、「すべては究極の意味などないただのばらばらのモノの寄せ集めだ」ということになります。
 世界はばらばらのモノの寄せ集めであると考えるような世界観を、私はわかりやすく〈ばらばらコスモロジー〉と呼んでいます。
 近代の世界観はつきつめると〈ばらばらコスモロジー〉になり、それを人生観にまで適用すると、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義に到らざるをえない、そこに近代の決定的なマイナス面・限界(の主要な1つのポイント)がある、というのが私の見方です。」

 しかし現代科学のコスモロジーからは、以下のようなことが言えるのです。 

 「相対性理論と散逸構造論とビッグ・バン仮説と、ワトソンとクリック以降の遺伝子研究・分子生物学などを総合して「生命」を考えると、

 「生命も複雑ではあるが物質の組み合わせにすぎず、死んだら元のばらばらの物質に解体して終わり、相対的意味もなくなる」ということではなく、

 「生命は宇宙の自己複雑化・自己進化の成果であり、確かに個体は死ぬが、それですべてが終わりではなく、DNAによって生命そのものは引き継がれ、生き続けている。

 地球上の生命は、誕生してから約4〇億年生き続けているし、今後も(当分、数十億年は)生き続けるだろう」ということになったのです。

 しかも、宇宙エネルギー・レベルで見ると、個体・個人もまた、宇宙エネルギーから生まれ、今も宇宙エネルギーの一つのかたちとして生きており、死んでも宇宙エネルギーであるまま、あるいは「宇宙エネルギーの世界に還るだけ」と言ってもいいのですから、「死んだら終わり」ではないのです。」


 よりくわしくは

 「現代科学のコスモロジー:ポイントの整理表」(2012年07月13日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 1」(2012年07月26日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 2」(2012年07月27日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 3」(2012年07月28日)
 「現代科学とニヒリズムの克服 4」(2012年07月29日 )

などをお読みください。

 きっと、過度な死の怖れの緩和、空しさからの脱出、つまりニヒリズムの克服の確かな手掛かりにしていただけると思います。


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