今からちょうど100年前スペイン風邪というインフルエンザが大流行して死者は世界中で2千万人~4千万人に達し、我が国では39万人が亡くなっています。いまコロナウィルスの感染が流行の兆しを見せ、対応を誤ると大事にいたる恐れがあることから、100年前のスペイン風邪に関心が集まっているそうです。
ここで、なぜ井上微笑かといえば、微笑は流行のさなかに県立病院(現熊大病院)に肋膜炎で入院しており、感冒患者でごった返す病院内の様子などを句稿に書き留めているのです。印象深い文章なのでここに紹介します。
井上微笑は慶応3年、筑前国秋月藩の藩士の家に生まれますが、1歳のとき明治維新、3歳の時廃藩置県という激動の時代に幼少期を過ごします。父親が人吉の裁判所に職を得た関係で微笑は湯前村役場の書記となります。
微笑と同年生まれに正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉がいます。子規、漱石は俳句でつながりができる人ですが、紅葉はと言えば、明治23年当時、月刊雑誌「国民之友(主宰徳富蘇峰)」に「拈華微笑」という恋愛小説が連載されていました。微笑は湯前村にいてそれを読んでいたのですね、その作者が尾崎紅葉だったのです。
明治29年に五高教師として来熊した漱石が寺田寅彦等と俳句結社「紫溟吟社」をおこすと微笑は熱心な投句者となり、たちまち頭角を顕しますが、俳号は「拈華微笑」から採ったものでした。
微笑はその後九州日々新聞(現熊本日々新聞)俳句欄の選者なって新派俳句(正岡子規が広めた俳句)の普及に功績がありました。「井上微笑句集」あり。
大正9年(1920)の句稿
流感新春に入り益々猖獗。隔離室は満員。昨日三人、今日は一人死亡。形勢甚だ険悪。愚妻遂に襲はれ、一時は39度以上の発熱。三日間全く枕離れず。
飯食はで三日を続く蜜柑哉 微 笑
久しく病臥中の院長谷口博士十一月十四日遂に逝く。全院哀傷の気漂ふ。
火鉢の火茲に尽きたる寒さかな 微 笑
球磨より舅来たる。年六十八。矍鑠壮者を凌ぐ。
此流感臆せぬ老をたたへけり 微 笑
舅は二泊して帰る。家は昨年流感の為め嗣子を亡ひ、其子の三歳なる孫を鞠育す。
甥に贈る冬帽と太鼓頼みけり 微 笑
序でに当時の雰囲気を伝える「マスク、マスク」の写真を掲載します。
豪州メルボルンのナースたち
北九州の女性たち