葦北湯浦手永より下益城中山手永へ転任になったときの忠左衛門の家族について記しておきます。
惣庄屋は「御」を冠して御惣庄屋とよばれていました。これは単なる尊称ではなく職名であったようです。藩の公文書である町在等にも「御惣庄屋」と記載されています。
天保12年(1841)現在
矢嶋忠左衛門直明 中山手永御惣庄屋 47才
鶴子 妻 43才
にほ子 長女 21才 天保8(1837)結婚、別居
もと子 次女(双生児) 21才 〃 〃
源助直方 長男 19才 熊本遊学中
順子 3女 16才 この年竹崎律次郎と結婚伊倉へ
久子 4女 12才 後、徳富一敬と結婚、蘇峰、蘆花を生む
つせ子 5女 10才 後、横井小楠、後妻
楫子 6女 7才
さだ子 7女 3才
上記子女のうち順子、久子、つせ子、楫子の4人が後の肥後4賢婦人。堅志田村の会所暮らしの間に彼女たちの人格形成がなった訳で、その跡を偲んでみたい。
手永会所は手永統治のための役所でありますが、同時に御惣庄屋の役宅でもありましたから忠左衛門は家族とともにここに住んでいました。この点が近代の制度と大いに異なるところです。
勿論住宅の私的領域と会所としての公的領域は区別されていました。区別されていても同じ建物内ですから、忠左衛門の仕事ぶりは残らず娘たちの見聞するところだったでしよう。そのことが母親鶴子の躾けと相まって娘たちの人格形成に影響したと思われます。
母親鶴子のことは別にアップするすもりですが、賢母、賢婦人でありました。娘たちの読み書きの手習いをはじめ論語、孟子、左伝の素読なども彼女が教えた。また、これは葦北湯浦手永時代のことですが、遊芸を理解させるために日奈久から三味線の師匠を呼び寄せて習わせたというのですね。それから機織り、裁縫、薬草の知識、病気や怪我の手当など女一通り以上のことを教えたというのです。
のちに竹崎順子は横島の干拓地で農業経営に従事することになりますが、小作人の怪我の治療や薬の調合など、この時に憶えた知識が大いに役立ちました。
若宮神社。
平安時代の創建といわれますが、御祭神は「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」で、阿蘇氏の建立になるものです。近世初期切支丹大名の小西行長が宇土の領主になると釈迦院などとともにこの社も破却されます。再建されるのは加藤清正の代になってからで、以後細川氏もこれを保護したので、江戸時代には郷社として栄えました。
上の地図を見ればこの社は会所の直ぐ近くにあります。忠左衛門の娘たちはここの境内が遊び場だつたと想像されます。
先の地震で鳥居が落ちたので木製の物に架け替えられました。その際地震による被害を後世に伝えるために石柱部を遺しその上に木柱を継ぎ足す構造にしたと説明板に書いてあります。
広い境内には天然記念物の銀杏などが枝を広げていますが、何もない空間があります。嘗てここには芝居のための常設の舞台がありました。毎年秋になると願解祭りが挙行され昭和30年代までは大変にぎわったそうです。
江戸時代の願解祭は御惣庄屋の宰領するところでした。惣庄屋が祭りの立案企画を行いこれを郡代に提出して熊本にいる家老の決裁をもらって実施する仕組みです。
祭りの呼び物はなんと言っても浄瑠璃、歌舞伎などの芝居です。熊本には託麻郡竹宮村や合志郡竹迫村に、また靏崎大西村にそれを演じる一座がいました。とくに大西村の一座は大坂歌舞伎とのつながりがあって人気役者を抱えていたと言われます。
惣庄屋は毎年それらの一座と契約を結んで興行させるのです。興行の期間を何日にするか、演目を何にするか、また木戸銭をいくらにするか、これは興行の成否に関わる重大問題ですが、そういう記録は遺っていません。わが忠左衛門は卒なくこれをこなしていたことでしょう。
忠左衛門の娘たちもこの芝居を観るのが楽しみだったにちがいありません。竹崎順子や矢島楫子の伝記を読むと彼女等の人間通にしばしば驚きますが、その元になっている豊かな感情は芝居の中から染み込んだもののように思います。
後年矢嶋楫子は女学校校長のときに月謝が払えなくなった女学生に同情して自費立て替えをしてその女学生を助けたことがあります。そういう義侠心を育てた原点は子供の頃に観た芝居にあったのではと思います。
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