雑詠選後に 村中のぶを
修復の被いすっぽり城の秋 松尾 照子
熊本地震で崩れたお城のテントに封じられた今の異様な光景を詠じてゐる句です。而し一句はまことに尋常な表現で捉へ、その中七の叙述、結句の表出に私は躊躇なく偉とします。因みに作者は先に上村占魚、近くは夕野火先生の膝下にあった人です。
さざ波の寄せて織りつぐ花いかだ 後藤 紀子
「花いかだ」とは、水に散って流れつづる桜の花を筏に見立てた季語ですが、それを一句は「寄せて織りつぐ」と叙してゐます。何かそれは古典でも読むやうな、いかにも古風な措辞で、しかもその風景を的確に表現してゐます。なほ同じ春に「花筏」といふミズキ科の落葉低木の白い花を呼んだ季語があります。
母の名の流燈もあり添ひてゆく 伊織 信介
精霊流しに心を寄せる句です。特に「流燈もあり」のもの助詞に注目します。この助詞について、或る辞書には(願望表現としてその中心にあるものを示す)とありますが、一句の意図もこの一点にあらうかと思へます。それは流燈群の中の母の名にこそ、寄り添って蹤いてゆくのです。作者は句歴も長く、他の誌上にでも夙に活躍されてゐる方です。
いまだ現役九十三の生身魂 古野 治子
凡そ詩歌は一人称の文芸であります。つまり私は、我は、われわれは、といふ事です。「生身魂」の詠、まさに昂然と言ひ放って、女性の方です。して私共は、時には身を曝け出し自己を詠ずることも心掛けておくべきでせう。 なほ、作者とは数度お会ひして誠に穏やかな、柔和な方であることを付言しておきませう。
法師蝉律儀に鳴きてついと消ゆ 佐藤 和枝
「律儀」とは、佛語に因する言葉とありますが、一般には実直で義理がたい事を言ひます。それに「ついと」とは副詞として突然に、いきなりにと叙してゐるのです。以上を読み取りますと、或る時のつくつくしの本性を言ひ取ってゐて面白いと思ひます。しかし作者が、詩語の選択に労をとられたことは間違ひないと思ひます。
遠晴れて利尻の海の昆布船 赤山 則子
むろん北海道の方の詠句です。「遠晴れて利尻の海の」といふリズミカルな措辞が実に印象的で、遠い日に訪れました利尻岳とその海波の風光が目に浮かびます。また映像で目にします昆布探りのダイナミックな光景が想像出来ます。
詠句は簡単に詠ほれてゐるやうですが、この様な広大な風景を詩的に一句にまとめるといふ事は容易なことではありません。やはり日頃の労作の結果でせう。これからも当地に根ざした諷詠を期待いたします。
アヴェマリア梅雨聖堂に父送る 坂梨 結子
カトリックの方の父上の葬儀ミサの詠句です。彿教では葬儀ですが、カトリックでは別に鎮魂ミサとも呼ばれてゐます。「アヴェマリア」とは賛美歌を指してゐると思ひます。凡そキリスト教の葬儀は聖書と賛美歌と、祈祷が中心になってゐますが、その賛美歌の中、十字架を冠つた父上の棺が、外は梅雨さなかの大聖堂の聖壇へ進んでゆくのです。一句は 「梅雨聖堂に父送る」と詠じてゐます。読者にはその荘厳と悲しみのこゑが伝はつて来て、心に残る詠句です。
帰天とふ友の訃届く被昇天祭 向江八重子
作者は熱心なカトリックの信徒の方です。現に第四句集は集名も装丁も神父の方の手によって上梓されてゐます。
掲句の 「帰天」とはむろんキリスト教徒の方の死をいふのですが、召天とも呼ばれてゐます。その訃報が届いたのは「被昇天祭」 の日と、詠じてゐます。被昇天祭とは、八月十五日、一般には孟蘭盆の日、カトリックではこの日、聖母マリアが死を免れて昇天した日として教会では盛大なミサを行ふ日とあります。つまり作者は聖母マリアの被昇天の日、友の訃を知ってその因果と衷しみとを享受してゐるのだと思ひます。私は野見山朱鳥の (春落葉いづれは帰る天の奥) といふ、生を通した死の肯定につながるであらう句を思ひ出しました。
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