一 大塩平八郎二月初 所持之書物 銀四拾貫目余ニ
売払貧民ニ壱人前ニ金壱朱宛致施行
候由 右之世話いたし候書林も被召籠候 且又十
八九日ニハ壱人前弐朱宛 猶施行致すと諸方へ
触候て寄リ来ルもの共を集め候て人数ニ加へたり
とも風説いたし二取前施行ハ相違無之候事
上記は熊本藩細川家家臣の家に伝わる「大阪出火騒動聞書」という写本より
引用したものです。古文書の書体の一部を参考までに掲載しました。
「大塩平八郎の乱」という呼称件名はいつごろからそう呼ばれるようにったので
しょうか・・同時代の記録類iは以下のような標題のものばかりです。「大塩騒動
記」、「大塩平八郎騒乱記」、 「大塩騒動記」、「天保中大坂一件」、「丁酉大坂大
塩騒動記」等無数にありますが、多くは「騒動」となっており、「平八郎の乱」とい
うような標題は見当たりません。ということはこれはずっと後世になって命名され
たものと思われます。
さて、ここに特にこの一項を取上げたのはこの文書を読んでいて少し奇異に
思ったことがあったからです。と言うのは大坂は銀遣いの中心地であり主たる通
貨は銀であったはずなのに平八郎の救済金は金貨で分配されたこと、この点が
気になりました。平八郎には数万冊の蔵書があったといわれ、それを貧民救済
のために全部売り払った訳ですが、その代銀が40貫目、ここまでは銀遣いなの
です。それをわざわざ金貨に両替(手数料がかかる)をして分配したのですか
ら、分からぬ話です。そうしなければならなかった理由があってのことでしょう
が、その理由とやらを知りたいものです。(今後の課題)
ちなみに銀40貫目=金666余両=1万人余(1人1朱分配の場合)
金1朱=銭250文 この時(天保8年1837)は異常な米高で白米1升180文、
これでは救済金も焼け石に水ですね。
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