主宰五句
石牟礼道子さんを悼む
春星の西海浄土を目指されし 村中のぶを
兜太亡き山襞連ね残る雪 〃
梅の花姿勢を正し選句する 〃
春宵の畫廊や寫楽の大首輪 〃
黄心樹(をがたま)の花や海鳴とどく宮 〃
「をがたま」の樹
松の実集
戸馳島 村田 徹
春 の 雨 光 る と も な く 海 に 消 え
枇 榔 樹 の 空 の 明 る さ 春 の 雨
春 雨 の滲 む 句 帳 の 青 イ ン ク
春 昼 の 音 な き 雨 や 宮 土 俵
名 も 知 ら ぬ 春 の 花 咲 く 句 碑 ほ と り
小き櫛 後藤 紀子
花 見 月 港 の 丘 の 晶 子 展
自 藤 や 晶 子 は ゆ る く 縞 を 着 て
花 蘇 枋 束 髪 重 き 晶 子 像
春 深 し 恋 の 歌 人 の 小 き 櫛
花 は 葉 に 今 な ほ 熱 き 晶 子 う た
花の城 松尾 照子
満 開 の 花 の 中 よ り 天 守 閣
豊 か な る 陽 射 し に 花 に 城 癒 え よ
花 は 葉 に 城 甦 る 日 は い つ ぞ
花 冷 や 人 恋 し さ の ひ と り 酒
面 上 げ よ 胸 を 張 れ よ と 百 千 鳥
昼餉の手 西村 泰三
梅 探 る 鏝 絵 の 蔵 を 見 上 げ て は
出 番 待 つ 踊 り 子 た む ろ 花 の 下
終 り ゐ る 島 の 田 植 や 苗 淡 し
木 洩 れ 日 の 見 え ざ る 糸 の 毛 虫 揺 れ
昼 餉 の 手 洗 ふ 玉 解 く 芭 蕉 下
雑 詠 村中のぶを 選
清明の風さはさはと樹林墓地 伊棄 琴
次の句の「春嵐過ぎし林の青臭く」もさうですが、誰もが見てゐるであらう日常の風景を気負ふことなく詠んでゐて、静やかな自然の風韻が伝はつて来ます。
掲句清明とは春分の後、本年は四月五日でした。万物ここに至って皆潔斎にして清明なりと言はれてゐますが、その樹林墓地とは巷で言ふ樹林葬の墓所ではなく、清明といふ節の語感からして、私は聖徒の方々の墓地ではと思ひつきましたが・・。さうであれば季節の風が渡る、樹林の中
のクルス墓地の風姿が殊更に伝はつて来ます。
引力の中をやさしく花ひとひら 菊池 洋子
「引力」の作用で物は全て下へ落ちるのですが、その「中をやさしく花ひとひら」とは、万有引力の中、桜花の一片が散ってゆく様を女人の方らしい感性で詠じてゐますが面白いと思ひます。それに理屈がかった叙述ではなく、自然な諷詠に受け取れます。してまた師上村占魚の (引ばれる日をふりきって檸檬の実)の句があるのを思ひ出しました。之は庭前の檸檬の実の落下を詠じたもので、私は一つの物の実相に迫った詠句として評価してゐるのですが、この師の句の底の底に、掲句とは何か通じ合ってゐることに淡い感銘を覚えました。
輝きて堰を溢るる春の水 桶 一瓢
作者は九十七歳とあります。句意は堰の春水を平明に詠み取ってゐます。而し乍らこの瑞々しい抒情は、此の方のどこから発散されてゐるのか。俗に言ふ、いたづらに老残を喋くのではなく、作者の積極的な、きらきらした感性に癒されます。
ともあれ、九十に一つ端の付いた私は誰よりも作者ご白身の老境の自在さに肖(あやか)りたく思ひます。
白椿散りて濁世の錆となる 細野佐和子
「濁世」とは仏教語、道徳がおとろへ、けがれた世の中の事を指してゐます。「錆」は言ふまでもなく金属が空気に触れて、その酸化作用で褐色や黒くなることです。
つまり掲句の本意は、白い椿の花びら数片が、この少々濁った世の中へ散って錆色になったと、ひいては昨今の世情を作者はひとり慮ってゐるのではないでせうか。私は納得できます。
親猫に咥へられたる仔猫かな 酒井信子
一句は異様な光景と思ひます。しかし産れ立ての子と共に移動するには他の動物と同様、咥へて行くしかない事は改めて分かります。同時にこの光景を詠み取った作者の、母性としての温かい眼差しが、読者にはほのぼのと心に入つて来ます。そして子を産む女性の方のみの詠情の句だと言ひ切ってよいでせう。
オホーツクの朽ちし立木や別れ霜 浅野 律子
「オホーツク」とはオホーツク海に面した港町の事でせうか。作者は札幌の方ですから現地そのものではなくとも、偶々何かの折に遠く望んだオホーツクの町の所見として一句を理解しました。その北の町特有の 「朽ちし立木」が実に印象的で、季節の霜に被はれた白々とした家並みがまた
見えて来ます。そして結句の 「別れ霜」 になにか旅情を感じるのですが・・。
春北斗「苦海浄土」に名を遺し 井上みつせ
掲句には石牟礼道子追悼、と詞書がありました。二月十百、九十歳で石牟礼さんは亡くなりました。二月といふ月は古来より名立たる人の忌日が多く、二十日には彼の金子兜太氏も旅立たれました。
『苦海浄土』 といふ一書はもうここで説く必要はなく、望郷のこともあって私は『椿の海の記』 などと、繰り返し読みました。(もういっぺんー行こうごたる、海に)とか、
私には全編、熊本弁が詩語のやうにきらめいて読めるのでした。そして水俣病を恨みに恨んだ事は今日まで続いてゐます。「春北斗」とは、春分の頃はよく見えますが、東北の中空に春先は北斗七星が淡く見えます。それは季語ながら追悼の措辞でもあります。
産み月のふとん屋覗く梅日和 和坂梨結子
一句を懐かしく読み下しましたが、特に「ふとん屋」といふ呼称が往年を呼び起こしました。私には四人の姉がゐたのですが、臨月の姉が母と赤子のふとんを買ひに行くのに連れ立って行った記憶があったのです。当時のふとんは現代の様な羽毛布団ではなく重かった記憶があります。なほ句を読むのに「産み月の」と一旦切って読むべきでせう。 また「覗く梅日和」とは一人ではなく複数の人の様に思へます。
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