気が重いよ…伊那篇

落ちるところまで落ちた男の日記

木村筆之助 没後30年

2014-05-03 14:41:58 | 鶴竜・御嶽海&大相撲
没後30年です。
「木村筆之助」を知る伊那の人も少なくなりました。
木村筆之助は、元大相撲の幕内格行司で長野県伊那市出身。
本名は田畑啓。
生家は、あの伊那市唯一の映画館であります。
昭和11年1月、僅か12歳で大相撲の世界に入門しています。
私が子供の頃、大相撲中継で筆之助が映ると、親父が教えてくれました。
「あの行司さんは、伊那市出身だよ」と。
それ以来ずっと注目していました。

しかし、昭和50年代に入ると、筆之助は急激に体力が衰えるのでありました。
まだ50歳台の半ばですよ。
糖尿病によるものでした。
取組み中に、力士の廻しが解けても、自力で締め上げることが出来ません。
(このシーンは行司の腕の見せ所で、軍配の紐を口にくわえて軍配は肩から垂らし、空いた両手で廻しを締め上げます)
取組み中の力士の動きに付いて行けずに、力士と一緒に転倒してしまいます。
行司は、勝った力士に勝ち名乗りをあげますが、筆之助は力士名を忘れてしまいます。
こういう失態が余りにも多く、相撲協会は筆之助を三役格に上げませんでした。
昭和41年11月から約15年間に渡って、「幕内格筆頭」行司でしたが、どんどん後輩行司に抜かれて行きました。
幕内格筆頭なので、だいたい午後5時前後(NHKでニュースが入る)が筆之助の出番でしたね。
もし、筆之助が健康体であったならば、ナンバー2の式守伊之助くらいは行ったんじゃないかと思います。



筆之助は、病気による不運もありましたが、立派な郷土の行司でありました。
所属が伊勢ノ海部屋だったのですが、伊勢ノ海部屋と言ったら、横綱・「柏戸」ですよ。
柏戸の秘書的役割もこなしていたのです。
当時、巡業などでも、柏戸と筆之助は良く行動を共にしていました。
伊勢ノ海部屋の後輩行司・「式守勝治」は、筆之助の弟子で後に34代木村庄之助を襲名。
弟子が最高位を極めているのですよ。
井筒部屋で横綱・鶴竜の髷を結っている床山の「床鶴」(松本市出身)。
彼の母方の実家が、木曽の漆職人で筆之助の軍配に漆を塗っていました。
まさに同郷の筆之助が縁で、床鶴は相撲界に身を置くことになったのであります。

筆之助は、昭和55年9月場所中に休場。
以後、一度も土俵に戻ることがないまま、同59年4月26日に糖尿病による心筋梗塞のため死去、享年60歳。
現役死でありました。





木村今朝三というのが木村筆之助が一時期名乗った行司名です





昭和57年時、錦太夫・与太夫(清三郎)・庄太郎に抜かれています


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