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【西田幾多郎(後期)】日本思想解説【絶対無】【絶対矛盾的自己同一】/哲学チャンネル

2021-08-07 06:10:25 | 哲学の窓

哲学チャンネルより 【西田幾多郎(後期)】日本思想解説【絶対無】【絶対矛盾的自己同一】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=PnwyycLPCUg

とっつきづらい哲学や心理学の内容を、出来るだけわかりやすく完結に お伝えすることを目的としたチャンネルです。 
 
【西田幾多郎(前期)】日本思想解説【純粋経験】【主客未分】 https://youtu.be/T4WYAk-4-Hg ※書籍 西田幾多郎講演集 https://amzn.to/3kbUmc1
 
動画の書き起こし版です。
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前回、主観と客観の前には【純粋経験】が存在していて、 その純粋経験こそが【善】であると解説をしました。 後期西田哲学においては、この【純粋経験】をさらに深掘りして理論化します。 西田幾多郎はこの世の根源は【絶対無】であるといいます。 【絶対無】は【述語の論理】で説明されることが多いです。 例えば『これはりんごである』という一文があるとします。 『これは』が主語にあたり、『りんごである』が述語にあたりますね。 当たり前ですが、りんごは果物です。 つまり『りんご』という述語が主語に変化して『果物』という新しい述語が出てきました。 同様にして『果物は植物』であり『植物は有機物』であり、 『有機物は・・・』といった具合に述語を包括するもっと大きな述語が無数に存在します。 この作業を延々と続けていくとどこに辿り着くでしょうか? 最後には全ての述語を包括する何かの言葉にたどり着くと考えられますよね。 しかし、その何かが存在するものであった場合、 その存在するものを包み込むさらに大きな存在が必要になってしまいます。 この理論を採用すると、述語は無限に広がることになってしまうのです。 そこで西田哲学では、この終着点を【無限大の熟語】と定義しました。 無限大の熟語においては、この世の中の全ての熟語が包括されており、 『〜である』という述語がそれぞれ矛盾を孕むことなく存在しています。 この場所のことを【絶対無の場所】と表現します。 そして、この【絶対無の場所】を根底に置き、 西田哲学では我々の見ている世界についても説明を試みます。 我々が見ているこの世界は意識の中に存在していると考えます。 表出された世界は【自然界(有(う)の場所)】と表されます。 その世界を作っている意識のことを【意識界(相対無の場所)】と呼びます。 意識界は意志と感情と知性で構成されており、 意志が感情を生み、感情が知性を生み、知性が自然界を生み出します。 意識界を生む概念を【叡智界】と呼びます。 叡智界の根底には道徳があり、その上に価値観や美意識が存在します。 叡智界という概念はプラトンの【イデア】と非常に近いですね。 プラトンは、この世界に存在するものを見るときには イデア界にある『本当の〇〇』という存在を想起して 比較することで認識を可能にしていると考えました。 そして、イデアの中でも最高のものを【善のイデア(道徳)】としていましたね。 また、カントの【英知界】とも非常に近い考え方です。 カントは、人間が理解できる範囲と理解できない【もの自体】を明確に線引きし、 もの自体が存在する【英知界】の諸問題に関しては、 道徳法則を対応することで解決するしかないと考えました。 それらと、非常に近い概念だと捉えて差し支えないと思います。 そして、この叡智界を生んでいるのが【絶対無】です。 絶対無の場所においては、善も悪も、美しいも醜いも、幸も不幸も、 全く区別のない絶対的な無しか存在しません。 ここから全ての要素が生まれ出る。そう考えたんですね。 仏教的にいうと【空】の概念です。 このように、一切のことは根底で絶対無として繋がっているのだから 自然界で表出するあらゆる矛盾は、相互作用の結果全て解決できると主張するのです。 この考え方を【絶対矛盾的自己同一】と呼びます。 前回解説した【純粋経験】または何かに没頭している状態とは、 このような構造を一気に飛び越して絶対無の場所の経験をしていることだといえますね。 西田哲学では、この絶対無の場所を体験することによって、 自身もまた無であることを認識し、それによって真の自己が実現できると考えます。 これはまさに【解脱】と同様の考え方です。 そのためには、まず意識界を磨くことが必要です。 やるべきことに打ち込んで、知性や感情を磨いていくのです。 そのように没頭を続けると、いずれ自分の価値観や道徳心と 向き合わないといけない瞬間がやってきます。 そこで自身の道徳に従えない弱さなどと向き合うことで、 最終最後、絶対無と出会うことができると考えられています。 これ、何か既視感がありませんか? そうです。キルケゴールが主張した人間の実存の三段階と非常に似通っているのです。 彼は人間の実存を3つに分けました。 まずは【美的実存】 これは快楽や美を求め、無限の可能性に浸って感覚的に生きる段階です。 やりたいことに没頭する意識界の段階と類似しています。 次に【倫理的実存】 これは倫理観や正義感に基づき、自己実現をはかる段階です。 キルケゴールはこの段階において、普遍的な倫理を実現できないことによって 大きな絶望に襲われると言いました。 そして最後は【宗教的実存】 絶望を認識しつつ、神と一対一で向き合うことで真の実存を手に入れるのでした。 神を【絶対無】と言い換えると、ほとんど同じ思想だと考えることもできます。 このようにして全く違う場所で思想の一致を見るのは非常に面白いですね。 実際、西田哲学を批判した田辺元という哲学者は、 【絶対無】を神だと解釈して思想を展開しました。 そして、この絶対無の概念はその後、和辻哲郎や九鬼周造といった 日本の思想家に大きな影響を与えるのでした。
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