Q 明治政府は神仏分離 廃仏毀釈を行ったのは一体何故でしょうか。
A 神仏分離令の目的は、神社神道を純粋化して仏教要素を排除することです 従って、神社にのみ発令されてます お寺には発令されてないので、今も神仏習合状態です 新政府(明治政府)は欧米の先進国の発展がキリスト教を事実上国教とする国家体制に理由があると見ており、日本もそれに習って神道を国教とし、天皇を頂点とする国家体制を構築すべきだと考えていたからです 純粋化された神社の神職は準公務員化されてます 神社は明治維新当時17万社もあり、多すぎて国有化出来なかったため、一村一社運動を起こして、合祀による神社の削減を実行中でした 結果、10万5千社に減少してます 廃仏毀釈は明治政府の政策では有りません キリスト教化を防ぐため、江戸幕府は寺請制度(檀家制)を強制し、全ての民に仏式の葬儀法要、仏式の墓を強制しました。神社の神職も全員です。 だから、江戸幕府=仏教のイメージが強かったのですね 明治維新で天皇=神道の時代が来たと認識されており、当初は藩主が横滑りして知藩事となってます。藩主たちは保身のために、天皇への忠誠を示そうと、寺の檀家から抜けて神道に改宗したりしたのを受けて、家来や領民もそれを真似て神道に改宗するものが続出した藩がいくつもあります 仏教を弾圧して僧侶を全員還俗(僧から一般人に戻すこと)させた鹿児島の事例もあります。鹿児島では一時期「寺」がなくなり、僧侶も全員還俗させて陸軍預けとしてます。 中には寺の破壊を行った藩主もおり、その空気を察して寺の破壊行動を民衆が起こしましたが、藩主も新政府の出先(当時は裁判所と言いました)も破壊行動を黙認してました 江戸時代に寺は、武家や民衆の足元を見てお布施の吊り上げなどをやっていたため、恨みを持つものが多かったと言われ、打ち壊しに参加するものが絶えなかったと言われてます これらの動きを、廃仏毀釈運動といいます 明治政府は、廃仏毀釈運動が内乱につながるをの恐れて、寺の破壊行動をやめるよう指示し、むしろ抑止・火消しに必死でした
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13261897778
A 一言では言えないため、箇条書きで説明します。
(1)江戸時代から、すでに各地で神仏分離の動きはあった。 (2)国学の発展により、神道の再評価が行われた。 (3)儒学の発展などで、神仏の棲み分けが人々に理解されるようになった。 (4)明治政府により、国策として「神道の国教化」が行われた。 (5)天皇の神格化。((4)関連) (6)明治政府により、江戸幕府から与えらた寺社領地の強制返還の指示。 (7)減税など、国民負担の軽減策。((6)関連) (8)廃仏毀釈は明治政府による政策ではなく、国民の寺社に対する怒りなどから始まったもの。(明治政府は、むしろ騒ぎを収める動きをしています。)
A 明治元年に、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」実現のため、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を出しています。国家として神道を国教化することを目指したのであり、弾圧ではありません。ただし、当時仏教は時流に合わないということで進んで僧籍を捨て神職になる、寺院や仏像を破壊する、と言ったことが雰囲気として行きすぎた行動が広まったのであり、これは政策ではなくブームという類いです。
A 明治政府の中心人物が近代化や外交に忙しかった隙に神祇官や国学派が暴走して神道の国家宗教化を目指した結果です。 やがて仏教界の反発やキリシタン弾圧に対する欧米の批判により信仰の自由方針が打ち出されて沈静化するようになります。
A 一部の過激な考えを持った学者などが、 江戸時代に盛んだった、神仏混交の考え方を、 全否定したからです。 平安時代あたりからずっと、わが国には、神も仏も根は一緒。 神様が仏の姿を借りているだけ、といった思想があり、 神社の中に、仏教施設があったり、といった事は、 珍しくありませんでした。 しかし、明治維新を成し遂げ、国家神道を作り上げようとしていた、 岩倉具視とそのブレーンにとっては、 神社と寺が同格では、望ましくありませんでした。 特に、岩倉の手先となっていた、国学者の玉松操や大国隆正らが、 仏教の抑圧に動いたのです。