哲学チャンネル より まとめ【新実在論#8】
現代人が信じている世界 【新実在論#1】 https://youtu.be/1VDqBjXNKs8
形而上学と構築主義の誤り【新実在論#2】 https://youtu.be/qmORPg71CUY
物理主義と唯物論の誤り【新実在論#3】 https://youtu.be/_KPDh-sBGDc
意味の場【新実在論#4】 https://youtu.be/JtJyxmZ-vys
なぜ世界は存在しないのか【新実在論#5】 https://youtu.be/rM-HGDXNKEQ
宗教とは意味の付与である【新実在論#6】 https://youtu.be/FdGVuRYyLqw
科学と芸術【新実在論#7】 https://youtu.be/TNGlydNjLaQ
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動画の書き起こし版 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
新実在論において『存在』は『意味の場』に現れると解釈されます。 赤い絵の具でびっしりと敷き詰められた絵画に他の色を認められないように 『存在』は何らかの方法で周りから突き出ない限り、我々に認識されません。 そして絵画で言えばそのキャンパスが『意味の場』です。 キャンパスも何かしらの場の中に存在するのと同様に 『意味の場』も何らかの『意味の場』の中に存在します。 このように無限に生成される『意味の場』の中で あらゆる存在が実在として認められるのが新実在論の世界観です。 新実在論は考えうる全ての存在を実在として認めます。 りんごを見ているAとBがいるとき、何を存在として認識することができるでしょうか。 形而上学的には「りんご自体だけが存在する」と言います。 構築主義的には「Aが見ているりんごとBが見ているりんごが存在する」と言います。 新実在論ではこれを「りんご自体とAが見ているりんごとBが見ているりんごが存在する」と考えるわけですね。 無限の存在を認める新実在論において唯一認められない存在が『世界』です。 『世界』とは「全ての意味の場を包摂する意味の場」のことです。 全ての存在を内包する入れ物と表現しても良いでしょう。 新実在論的な立場に立つと、このような存在を認めることができません。 仮に『世界』があるとしましょう。 するとその『世界』が存在として突き出るために 『世界』を包摂する『意味の場』が必要になります。 それがなければ人間が『世界』を認識することはできないからです。 するとその『意味の場』は『世界』よりも少しだけ大きいことになり 「全ての意味の場を包摂する意味の場」というテーゼに矛盾します。 つまり、新実在論の立場に立つ限り 『世界』を論理的に規定することが不可能なのです。 故に「世界は存在しない」 私たちが普段口にする『世界』は何らかの意味の場においての 『複製された世界みたいなもの』だということですね。 真の意味での世界は存在していないのです。 新実在論は存在と世界を以上のように定義します。 では、この主張をすることに何の意味があるのでしょうか? マルクス・ガブリエルは現代における問題を大きく3つ取り上げます。 一つは『自然科学的世界観による全体主義』 私たちは現在、科学を信仰することで社会を成立させています。 その恩恵は非常に大きく、それ自体はなんら悪いものではないものの 信仰が行き過ぎることによって科学以外の事柄を排除する傾向も現れ始めています。 これは『科学』という宗教による全体主義と考えることもできます。 ガブリエルは『科学』という『意味の場』を『世界』だと誤認してしまう危険性を指摘します。 二つ目は『構築主義と相対主義』 近代から現代にかけて、真理を追求する旅には一旦終止符が打たれ 私たちそれぞれの人生における有用なことへと学問のベクトルはシフトしました。 その前提には「私たちの認知は真理に及ばない」という構築主義的な思想が存在していて その結果「人間同士の認識も共訳不可能である」という相対主義の様相を見せています。 このような相対主義は共同体間の分断を生み出し、 分断が激しくなると、意味の場への盲信によるファシズムが再来する可能性もあります。 三つ目は『ニヒリズム』 近代まで盛んに行われていた真理の追求。 それが不可能だと仮定された瞬間から現代的なニヒリズムが始まりました。 人間には本来的な生きる意味などはなく (科学的世界観においては)世界の端っこで暮らす取るに足らない存在でしかない。 このようなニヒリズムは生の原動力を著しく毀損します。 形而上学的な『絶対的真理は存在する』という立場に立てば 全体主義的な問題が現れる。 構築主義的な『真理は認識不可能』という立場に立てば 相対主義やニヒリズムが立ち現れる。 新実在論はその二つを超克しようとしているのです。 絶対的な真理はない。絶対者たる世界もない。 しかし、無限に存在する意味の場の中で表出する無限の存在は それぞれが実在であり固有の真理である。 こう定義することによって、 私たちはそれぞれの認識を突き合わせて語り合うことができます。 意味の場が無限にあるとしても、それが実在である以上 同じものについて語り合える可能性があるということです。 マルクス・ガブリエルは新実在論を通して 私たちに人間らしさを取り戻すことを要請しているように感じます。 私たちは意味のない存在ではないし、 かといって何らかの法則にただ巻き込まれる存在でもない。 それぞれが個別に実在を認識できる存在であり その認識はどこまで行っても共訳可能である。 それらを正しく検証するのはとても骨の折れる作業だが 私たちはそれをしていかないといけないし それ自体が生きる意味なのではないか? このようにして新実在論は現代の閉塞感を打破しようとしています。 比較的新しい思想ですから、その評価は定まっていません。 とは言え、新実在論の是非はともかくとして この主張から学び取れるものは数多くあると感じます。 8回にわたって『新実在論』シリーズをご覧いただきありがとうございます。 一連の動画が今後の人生を考える上での何かしらの実在になったら こんなに嬉しいことはありません。