今日、8月16日は新聞休刊日なので、昨日のコラムを紹介します。
やはり、終戦がテーマか・・・
数々の無謀
太平洋戦争のさなか、飢えにさいなまれたガダルカナル島の日本軍で奇妙な予言がはやりだした。「立つことの出来る人間は寿命30日間」「身体を起こして坐(すわ)れる人間は3週間」。兵士の衰弱ぶりから残りの命を・・・[続きを読む]
・ 「今度の戦争に敗れた一つの理由は…
「今度の戦争に敗れた一つの理由は主観的な観念性に走って科学を媒介とした客観性、世界性から遊離したことにあった」。終戦から5日後の1945年8月20日。小紙に高坂正顕(こうさか・まさあき)・京都大人文科学研究所長の長文の談話が掲載された
▲カント研究で知られた哲学者の高坂は日本人が抱いていた自信、自尊心について「外に目をふさいで己(おのれ)を高しというような趣はなかったか」と疑問を示し、「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識に敗因を求めた
▲今の日本も似た問題を抱えてはいないか。未曽有のコロナ禍にもかかわらず楽観論や希望的観測が横行し、五輪開催という国家目標の実現を優先するあまり、国民の安全を二の次にするような議論があった。科学的知見や客観性が重視されているようには見えない
▲ワクチン敗戦、コロナ敗戦といった言葉も使われる。有効なワクチンを開発できず、科学技術の遅れを露呈した。当初は有効に見えたクラスター対策中心の「日本モデル」もデルタ株の流行で水泡に帰し、感染拡大が止まらない
▲文部科学省の研究所によると、影響力の大きな自然科学分野の学術論文の数で日本が過去最低の世界10位に後退した。中国が初めて米国を抜き、世界1位になったことに今の国際情勢が表れている
▲76回目の終戦記念日。米中に追いつけ、抜き返せという時代ではあるまい。ひとりよがりに陥らず、日本が置かれた現状を客観的に見つめ直すことが過去の失敗を今に生かす出発点ではないか。
・ 経営難の喫茶店を津軽三味線のライブで支える女子高生の青春を描いた新作映画「いとみち」。ヒロインも監督も青森県出身で、ロケ先もすべて当地だ。幼くして母を亡くした少女は、祖母から津軽弁と三味線の技法を受け継ぐ。でも、内気で心を開くことができない。
▼3世代の家族の物語である。本筋とは関係ないようにみえるが印象的な場面がある。主人公は高校の授業で1945年7月28日の「青森空襲」の史実を学ぶ。焼夷(しょ...
・ 九段の杜(もり)は、雨に煙っていた。いつもは8月15日に参拝することにしているのだが、かつてない感染爆発に配慮して(というよりは、ワクチンを1回しか打っていないので密に恐れをなして)、前日にお参りした。
▼同様の配慮をした善男善女も多かったようで、参道は密にならない程度にそこそこにぎわっていた。いつもの夏ならお参り後にそば屋で献杯してから家路に就くのだが、某テレビ局を他山の石として門前の海苔(のり)弁当専門店で弁当を買って帰った。
・ 作家の内田百●(ひゃっけん)は雷が苦手だった。「生まれつき雷がこわいので、随分窮屈な思いをする」と書いている。空模様が怪しくなっただけで、足がすくむ。腹の底に気分の悪さを覚え、厠(かわや)へ行きたくなる。お気の毒に
▼雷嫌いの百鬼園先生、終戦の年の十月、GHQ本部に呼ばれ、こんな質問を受けた。「爆撃はこわいですか」。無神経に聞こえるが、米軍が空襲の心理的影響などを調査していたようだ。こう答えた。「こわい。ひどい目にあった」「むちゃだよ」
▼「どれぐらい、こわかったですか」。質問は続く。「こわいと云(い)う事だけならば雷様の方がこわい」「遠雷の方が恐ろしい。丸(まる)っきり鳴っていなくても、こわければこわい」
▼終戦の日。逸話を引いたのは鳴っていない雷のこわさのことである。たとえるなら戦争という雷。戦後七十六年、平和は一応守られ、稲光はなるほど今は見えぬ。けれども、雷を呼ぶ雲は本当にないか。音は聞こえないか
▼おおげさなと笑いなさるな。小欄いたって大まじめで、深刻な米中の関係や武張った最近の政治家のもの言いを持ち出さずとも雷のにおいのようなものを疑いたくなる
▼平和を守るとは、見えぬ雷にも厠へ駆け込むほど、こわがることなのだろう。空を見上げ、耳を澄まして、「丸っきり鳴っていない」雷を探す。まったく前触れのない「青天のへきれき」などないのだから。
▼雷嫌いの百鬼園先生、終戦の年の十月、GHQ本部に呼ばれ、こんな質問を受けた。「爆撃はこわいですか」。無神経に聞こえるが、米軍が空襲の心理的影響などを調査していたようだ。こう答えた。「こわい。ひどい目にあった」「むちゃだよ」
▼「どれぐらい、こわかったですか」。質問は続く。「こわいと云(い)う事だけならば雷様の方がこわい」「遠雷の方が恐ろしい。丸(まる)っきり鳴っていなくても、こわければこわい」
▼終戦の日。逸話を引いたのは鳴っていない雷のこわさのことである。たとえるなら戦争という雷。戦後七十六年、平和は一応守られ、稲光はなるほど今は見えぬ。けれども、雷を呼ぶ雲は本当にないか。音は聞こえないか
▼おおげさなと笑いなさるな。小欄いたって大まじめで、深刻な米中の関係や武張った最近の政治家のもの言いを持ち出さずとも雷のにおいのようなものを疑いたくなる
▼平和を守るとは、見えぬ雷にも厠へ駆け込むほど、こわがることなのだろう。空を見上げ、耳を澄まして、「丸っきり鳴っていない」雷を探す。まったく前触れのない「青天のへきれき」などないのだから。
※ 全社が戦争関係でした。
今回が76年。
100年までは、このようなことが続くのでしょう。