このブログでは、東日本大震災の2日後から、世界の新聞社・通信社がこの震災をどう報道したかを毎日切り取ってきました。
あれから10年になるあたり、当時の記事を再掲して当時の様子を振りかえっています。
今回は、2011年4月7日付けの記事 その1です。
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またまた、海外のメディアが東日本太平洋沖地震をどう報道しているかを見ましょう。
【中国】
人民日報 http://j.peopledaily.com.cn/home.html
日本の農産品、25カ国・地域が輸入規制
日本の食品に対する放射性物質の汚染は拡大しつつある。野菜、乳製品、魚類に続き、厚生労働省はこのほど、福島県いわき市のシイタケからも基準を超える放射性ヨウ素と放射性セシウムが検出されたことを明らかにした。県は市内の生産農家に対し、独自に出荷を自粛するよう求めた。中国新聞網が伝えた。
▽日本の農産品、世界各国が輸入規制
日本当局は食品危機への対応措置を講じているが、これまでに少なくとも25カ国・地域が日本でつくられた農産品や加工食品の輸入規制に乗り出したことが農林水産省の調査で分かった。
アラブ首長国連邦(UAE)などの国では、日本産の全ての生鮮食品の輸入を一時停止とした。フィリピンは福島、茨城、栃木、群馬の4県のクッキーやチョコレートを輸入停止とした。
ロシアは4県のほかに、千葉県と東京都の全ての食品の輸入を停止した。シンガポールも野菜や果物の輸入禁止の対象となる生産県を拡大している。このほか、米国、中国、韓国も一部の食品の輸入を禁止した。
欧州連合(EU)やブラジルなどは、放射性物質に汚染されていないことを示す証明書の発行を日本政府に要求した。しかし、日本国内の検査機器が足りないため、証明書の発行ができず、事実上、日本から輸出できない状況だ。
▽日本食品のイメージに大打撃
日本政府はこれを受け、各国に対し、科学的根拠のない規制を禁じた世界貿易機関(WTO)協定を守るように要請した。しかし、当初、欧米やアジアが中心だった輸入規制の動きは中東や南米にも拡大している。日本の農産品に対する安全、安心のイメージの悪化は避けられそうになく、影響は長期化すると見られている。
震災発生前、日本政府は農産物の安全基準を高め、農林水産物の輸出額を2010年の4921億円から2017年までに1兆円に高めていく計画を打ち出していた。しかし、地震と津波がもたらした原発事故で、この計画に深刻な影響が及ぶことは必至であり、世界各国の輸入規制措置も長期化する可能性がある。
国際救助への参加で「メイド・イン・チャイナ」のイメージ向上
国際社会において「メイド・イン・チャイナ」と言うと、「安くて低品質」な製品を連想する人が多い。しかし、中国企業は本当にこのようなローエンド製品しか生産できないのだろうか?昨年10月のチリ落盤事故の救出作業、そして現在行われている福島原発の復旧作業から、「メイド・イン・チャイナ」の国際的イメージが変わりつつあることがわかる。新華社が伝えた。
福島原発における放射性物質漏えいの危機に、世界各国が神経を尖らせている。そんな中、中国の設備製造会社・三一重工は62メートルの高さから放水できるポンプ車を無償で寄贈、福島原発の復旧作業において大きな力を発揮し、世界から注目を集めた。
福島第一原子力発電所で放射性物質が漏えいし、日本は各種の最新設備を使って原子炉を冷却すべく、様々な手立てを考えた。消防車、軍用ヘリコプターによる放水では命中率が低かったことから、チェルノブイリでの経験を参考に、ポンプ車による放水が提案された。ポンプ車のブームの長さで世界最長記録を持つ三一重工が、最新のポンプ車を探していた東京電力の目に留まったのは当然のことだった。
詳細な計算の結果、東京電力は原子炉の冷却作業用に62メートルのポンプ車を購入する意向を三一重工に伝えた。状況を知った三一重工は、中日の赤十字社を通じてポンプ車を寄贈、さらに全方位的なサポートを提供したいと申し出た。
三一重工の62メートルのポンプ車は3月19日、中国人の祈りとともに中国を出発した。設備の調整、日夜にわたる陸海輸送、操作員の研修、放水テストなど8日間にわたる事前任務を終え、ポンプ車は27日12時45分、ついに福島原発の指揮センターに到着、31日12時より福島原発1号機への放水作業をスタートした。最新の情報によると、ポンプ車は正常に稼動しており、放水の効果は良好で、放水作業は今後1カ月あまりにわたって続くという。
日本国内では、福島原発の復旧作業に中国のポンプ車が投入されたとのニュースが数十の大手メディアによって報じられ、日本の人々、政府から感謝の声が上がっている。メディアによると、日本最長のブームを誇るこのポンプ車は、親しみをこめて「大キリン」などのニックネームがつけられたという。
ブームの製造技術把握は、そう簡単な道のりではなかった。ブーム技術はコンクリートポンプ車にとって要となる技術であり、この技術はこれまでドイツ、米国が握っていた。三一重工は自主開発・革新を重ね、1998年についにこのコア技術を把握、知的所有権を持つ国産コンクリートポンプ車の開発に成功した。これは中国初の国産ポンプ車であり、国外ブランドの独占状態を打破することとなった。
それから10年間の発展を経て、三一重工のポンプ車は37メートルから72メートルに成長し、三一重工を代表格とする国産ポンプ車は完全に輸出品に取って代わった。三一重工は世界最大のコンクリートポンプ車製造基地となり、ポンプ車の年間生産台数は4000台あまりに達した。
昨年10月のチリ落盤事故の救出でも、三一重工のSCC4000型キャタピラー式クレーンが救出用のケージ引き上げという重要な任務に選ばれた。
中国製の設備がチリ落盤事故の救出に選ばれたことで、「メイド・イン・チャイナ」の品質に対する国際社会の初歩的な理解が得られたとすると、今回、建設機械の製造強国である日本が中国のポンプ車の購入を申し入れたことで、「メイド・イン・チャイナ」に対する国際社会の認可が大幅に高まったことは間違いないだろう。
チャイナネットhttp://japanese.china.org.cn/
大震災後の日本のV字型景気回復は期待できる
マグニチュード9.0の大地震とそれに伴う津波、原発事故。140年ぶりの規模となった大地震は日本の経済回復に深刻な影響をもたらし、光の見えつつあった世界経済にも暗雲が立ち込めた。2010年、日本経済は3.9%の実質成長率を記録し、20年ぶりに人々を喜ばせたが、予期せず発生した自然災害は日本経済の成長軌道を狂わせてしまった。世界銀行の試算によると、大地震が日本にもたらした経済損失は1220億~2350億ドル(GDPの2.5~4%)、1995年に発生した阪神大震災の約2倍(1000億ドル、GDPの約2%)になるという。
しかし、復興作業が展開されるにともない、日本経済はV字回復すると予測される。1995年の震災後、日本経済はそのような成長軌道を描いた。
日本の大地震は世界経済の回復に影響を与えない
大地震は日本の地域経済に大きな打撃を与え、莫大な経済損失と死亡者を生みだした。しかし、災害がもたらした実際の影響と世界経済の発展動向からみると、日本の大地震は世界経済回復の動向に影響を与えない。IMFがまとめたデータによると、2010年、世界の経済成長率は2009年の-0.6%から5.0%まで上昇した。その内、先進国と新興市場国家はそれぞれ-3.4%から2.6%、3.0%から7.1%に上昇している。このことから分かるとおり、世界経済はすでに金融危機の影響から脱し、回復の道をたどっており、日本の大地震が世界経済の長期的な上向き傾向を妨げることはない。
実体経済の角度からみると、現在、日本経済が世界経済に占める割合は8.8%であり、中国(9.5%)を下回っている。上向き傾向にある現在の世界経済において、日本の大地震は日本国内に多大な被害をもたらすかもしれないが、世界のGDP成長への影響は非常にわずかである。
貿易に関して、日本は世界の産業チェーンにおいて非常に重要な地位を占めている。例えば、チップ業界は世界市場の5分の1以上を占め、電子の世界市場の占有率は70%を越え、半導体シリコンウェハも世界の50%以上を日本が供給している。地震がもたらした一時的な輸出の停止は、他国の企業にわずかに影響を与えたが、復興作業により世界の貿易は活性化されると考えられる。
金融市場の動向に関して、日経平均株価とドル・円レートは一時的に下落したが、すぐに回復した。日経平均株価はここ2年間で最低の8227.63ポイントまで落ち込んだ後、すぐに9400ポイントまで回復した。復興需要を見据えた企業の動きと保険会社による海外資産売却により円は一時的に高騰したが、G7の介入もあり、円対米ドルレートは80円付近で落ち着いた。このことから、日本の金融市場の一時的動揺が世界経済に与える影響はわずかだと考えられる。
経済発展モデルを改めて考える
人類発展の歴史の中で、自然災害の発生は、人類が蓄積してきた財産や生存環境を脅かすだけでなく、自然災害という表面的な影響を通して、「人と人」「人と自然」「人と社会」といった深層レベルの事柄について人々に改めて考えさせてきた。日本の大地震は間違いなく、東西文明の交代および人類の健全的な発展という角度から、正確な世界観と人間観を如何にして樹立するかについて考える歴史的契機である。
30年以上にわたる改革開放を通じ、中国は後進国家として、「中国発展モデル」を打ち立てることに成功した。このモデルの中核となる要素は次の3点である。一つ目は現代の市場経済制度を導入し、西洋市場経済の効率主義とイノベーション志向を中国の国情に結びつけること。二つ目は漸進主義改革のモデルを堅持し、モデル転換期におけるマクロ的安定性を維持すること。三つ目は労働力資源、市場資源、挙国体制の優位性をを十分に発揮することである。中国と違い、日本は典型的な「強市場、弱政府」国家であり、経済はすでに成熟期に入り、社会構造も比較的安定している、東方文化と西洋の政治、経済体制の独特な融合が日本の細部にまで浸透している。2つのモデルは適度に融合されているといえる。
今回の地震後、日本が実施した救援活動の実質的効果から分かったことは、グローバル化が進む現代社会の管理において、突発的災害と事件に直面した際、国家の管理能力が重要な役割を発揮するということである。管理能力が比較的強い国は救援および応急処置において、効率的な対応ができる。当然、「東方式」の国家管理能力を運用することは、西洋市場経済制度における効率主義とイノベーション志向を否定するものではない。実際、東方文明、西洋文明はそれぞれ長所を持っている。実践の中で、両者は独特かつ有効的に融合し、互いの長所を生かした包括的な発展を実現する必要がある。これは世界経済と文化交流が直面する核心的な課題である。(作者:中国国際金融学会の陳雨露副会長)
NHKにCMがないのはなぜか
韓露が日本の汚染水放出に不満
地震救援で「メイド・イン・チャイナ」威力発揮
日本人が思いも寄らなかったこと
3月11日午後2時46分、田原氏は気分の悪さと耳鳴りを感じ、周りのテーブルや椅子が飛び上がるような感覚に陥り、ここ数日の疲れが溜まっているのだろうと思った。テーブルの上のコップが飛び上がって落ち、壁に掛かっていた絵が揺れ、彼と話をしていた職員が「地震だ」と叫んだとき、彼はようやくそれが地震であることに気がついた。
東京ではすでに何日も地震が続いているが、今回はこれまでと違う。オフィスのみんなと一緒にビルの十数階から下へ降りる際、彼は遠くに見える東京タワーの頂上部が曲がっているのに気がついた。東京での暮らしは十数年になるが、こんなことは初めてだった。
電話で家族に連絡を取ろうとしても、携帯はつながらなかった。地上の空き地に集まってくる人はだんだん多くなり、みんな携帯を使って必死で電話やメールを送ろうとしている。わずかな風もなく、慌ててビルから下りてきた時に少しかいた汗は、東京タワーの曲がった頂上部を見てさらに多くなった。誰も言葉を交わさず、電話で話しもしていない。田原氏が耳にしたのは、携帯のキーが押される音だけだった。
この時の田原氏には想像もつかなかった。日本が遭遇したのは、ただの大地震ではなく、前代未聞の災難であることを。地震が津波を引き起こし、そしてその津波の後、原発が爆発した。今回の災難は1995年の阪神淡路大震災を大きく上回り、その影響は、今後長期にわたると見られている。
地震等の自然災害に遭遇した時、日本人がまず初めにとる行動はテレビをつけ、NHKから関連情報を入手することである。もしテレビが見られない場合は、ラジオを聴く。
「2時46分前後、宮城県北部で地震が発生、マグニチュードは7.9です。東京23区でも震度5レベルの地震が観測されました。」テレビではいち早く報道されたが、田原氏がそれを知ったのは地上で20分ほど過ごしオフィスに戻ってからのことだった。オフィスは、足元にたくさんのファイルやキャビネットが散乱した状態だったが、幸いなことにテレビは壊れていなかった。
日本人にとって地震後に津波を警戒することは、ごく自然なことである。テレビでも地震情報の後には必ず津波に関する情報が報じられる。「岩手県釜石市で4.2メートルの津波が予想されます。」しかし、この時報じられた情報は正しいものとはいえなかった。後で気象庁がマグニチュードを9.0に引き上げるからだ。一部の地域では、その時13メートルもの巨大な津波が押し寄せ、一万人以上の人が行方不明となった。
( 以下略 )
変革を迫られる疲弊日本
福島原発事故は、日本にも同じような危機をもたらした。行政における初歩的判断ミスや、その後の対応が鈍いことで、国全体に大きな失望と疲弊をもたらした。
新たな変革なしには、日本がこの絶望的な疲弊から抜け出すことは難しいだろう。
日本のこのような疲労を感じたのは、初めてである。3月11日に発生したM9.0の東日本大震災は、1995年日本人に大きな悲しみの記憶をもたらした阪神淡路大震災を更に大きく上回るもので、その大きさは想像を絶するものである。M7.0の地震はTNT48万トンの爆発に相当する。M9.0では、その1000倍のTNT4.8億トンの爆発に相当、その突然の襲来が全てを変貌させてしまった。
当初、日本国民は極めて冷静だったと言える。良好な社会秩序のもと、人々は政府指導によってこの災難に対応できると信じていた。しかし、被災後12日が過ぎた23日には、人々の政府に対する絶対的信頼感が揺らぎ始めた。現場で救援に当たる部隊は疲労困憊、避難所の被災者達も食料・衣料が不足する環境に不満の声を漏らすようになった。また、一日数十回に及ぶ余震が、人々を船酔いのような吐き気や苦しみ、そして不安な状態に陥れている。
百時間以上休まず働いた枝野官房長官は機械的に事務室が準備した原稿を読むが、その声は活力に欠けている。しかし、この決してハンサムとは言えない彼の、過労死するとしてもそれはテレビカメラや記者の面前でと言わんばかりに、最後の力を振り絞っているその闘志が、テレビの前の全ての国民に伝わり、人々は敬服の念を抱いている。
枝野氏は、今回の震災で、ようやく多くの日本人にその顔をはっきりと覚えられることになった人物である。実際、これまで彼はあまり人々に好かれているとは言えなかった。中日漁船衝突事件発生後、枝野氏の強硬姿勢は多くの人々を唖然とさせた。日本政治家に良く見られる冷静さや慎重さとは対照的に、枝野氏の態度は「口汚い罵り」という言葉で表現できる。
中日関係が冷えきっていたとはいえ、政治家として隣国に悪口を言うことは、有権者、マスコミ、野党を問わず「やり過ぎ」だと思われる。地震発生前、枝野氏は記者や野党の槍玉に上げられていた。
しかし今となっては、そんなことに興味を持つ者はない。人々の関心は、地震・津波・原発という目前の脅威に集中している。
原発について知識を持たない政府のスポークスマンは、通常より大きな困惑と苦難に直面している。これまでものすごい剣幕でまくしたてていたマスコミも、この官房長官に同情し、彼に睡眠や休憩を取るよう促し、その後でまた尽きない質問に答えるよう勧めた。
民間では、ボランティアたちが防寒具や食料品、大人用紙オムツ(被害の大きいところにはトイレがない)を自家用車いっぱいに積み込み、被災地に向かう。殆どの道路が修復したとはいえ、ガソリンが無くなれば前へ進めず、スムーズにいかないケースも多い。
日本では、40年前にもオイルショックが起こったが、それは現在車を運転する大部分の人が経験していないことである。日本の災害救助体制はかなり整備されているものの、ガソリンがない状態の中では、ほとんどお手上げ状態である。
1986年、チェルノブイリ原子力発電所が起こした事故は、世界中を震撼させた。事故処理上の過ちは旧ソ連の行政体制の硬直化を反映し、民衆もそれに対し大きな不満を抱いていた。そして、その状況は3年後の前ソ連崩壊を直接加速させる引き金となった。
福島原発事故は、日本にも同じような危機をもたらした。行政における初歩的判断ミスや、その後の対応が鈍いことで、国全体に大きな失望と疲弊をもたらした。
未曾有の大地震は、日本の姿を変えただけでなく、それに応じた変革を日本に迫っている。新たな変革なしには、日本がこの絶望的な疲弊から抜け出すことは難しいだろう。
大紀元http://www.epochtimes.jp/
震災を体験した台湾女性
3月11日に発生した東日本大地震は、東北地方の東海岸から関東地方沿岸に至るまでの極めて広い範囲に、甚大な被害をもたらした。その中でも被害がひどかった場所の一つに宮城県東北部の南三陸町がある。地震による津波のため、町の人口約1万7千人のうち半数が死亡または行方不明、4分の3の家屋が破壊または浸水の被害を受けたとされるが、その実態はまだ明らかになっていない。その南三陸町で震災を体験した台湾出身の女性がいた。VOA中国語版が伝えた。
美しい町が消えた
彼女の名は張金枝さん。勉学のため台湾から日本に来た日から数えて、もう17年になる。今は南三陸町で、日本人の夫とその母とともに暮らしている。夫は土地測量と不動産を扱う会社を経営し、彼女は学校で中国人の生徒に補習をする仕事をしていた。
地震発生の3月11日、金枝さんは別の市で研修を受けており、家には義母だけがいた。
「地震が起きた時、幸いなことに夫は用事で家に戻っていました。家は海から遠くないところにありました。夫は義母をつれて、まず家から3キロ離れた会社へ移動しました。着いたとたんに『津波が来るぞ。早く逃げろ!』という消防署の人の叫び声が聞こえたので、大急ぎで母親を車に乗せ、高台へ避難しました。しかし、夫の車のすぐ後では、逃げ遅れた人やそれを救助しようとした消防隊員が、津波の犠牲となったのです」
金枝さんの友人も何人か亡くなった。ただ幸いなことに、彼女が知っている南三陸町に嫁いできた中国人女性は、皆無事だったという。
美しいリアス式海岸の風景は三陸地方に住む人々の誇りであるとともに、この地形がもたらす津波の恐ろしさは歴史的教訓として代々伝えられてきた。それゆえに、防波堤・防潮堤・水門など三重の防止線を構えるとともに、地震発生時には急いで高台へ逃げるという町民の避難訓練も欠かさずに行ってきた。
しかし今回は、その予想を遥かに超える規模の巨大津波が起こった。無情な津波は、堤防を易々と越えて町に襲い掛かり、全てのものを奪い去った。
町の全てが消えた。金枝さんの家も、夫の会社も消えた。後に残されたものは、砕かれた防波堤の残骸であった。
生き残ったことが奇跡
金枝さん一家は今、高台にある小学校の体育館の避難所にいる。地震発生後、二週間あまりが過ぎたが、まだ水や電気は復旧していないという。
ようやく夜の6時から9時まで、この避難所でもテレビが見られるようになった。テレビのニュースは福島原発事故について伝えているが、それがこの町にどんな影響を及ぼすのだろう。水や食料はなんとか避難所に届くようになった。しかし大気中に放たれた放射性物質も、いずれ私たちの口に入ってしまうのか。情報が不足しているため、金枝さんを含む避難所の人々は不安を隠せない。
そのような状況の下、被災地だけでなく、日本で生活していた多くの外国人が本国へ一時帰国している。台湾への帰国について、金枝さんは苦しい心境を次のように語った。
「ここは小学校なので授業が始まったら別の場所へ行くのでしょうが、仮設住宅もまだできず、避難生活がいつまで続くのか不安です。台湾へ帰りたいとは思うのですが、それは不可能です。夫と義母を残して、私だけ去るわけにはいきません。これを口にすることもできませんが、一家3人一緒に台湾に行くか、それとも3人で避難生活を続けるか、私にできる選択は一つだけなのです」
金枝さんは、まずは義母を安心させ、夫の仕事を立て直した上で、今後のことをゆっくりと、少しずつやっていこうと考えている。
「こうして自分が生き残っただけでも奇跡なのです。これからは少しずつ良くなっていくと思います」
VOAが金枝さんへ取材してから10日ほど経った4月4日、町外の別の避難所への移動を希望する被災者が、町長らが見送る中、南三陸町をバスで出発する場面を、日本のテレビのニュースが伝えていた。その中に金枝さん一家がいたかどうかは分からない。