静岡県美術館 館長室だより -兵馬俑-
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/outline/greeting/director_column/
私が疑問に思ったことが、すでに書かれていました。抜粋して、引用します。
12. 小さな兵馬俑
2022.8
「兵馬俑と古代中国」展会場で最初に出迎えてくれる兵馬俑は、高さが20cmほどの可愛らしい騎馬像です。戦国時代(前403~前221年)の秦の小さな墓から見つかったそうですから、始皇帝(皇帝としての在位期間は前221~210年)以前のものです。頭にすっぽりとかぶったフードが印象的で、襟や袖口もぶ厚い縁取りがあり、防寒服を着込んでいる感じです。馬に乗るのですから、もちろんズボンを履いており、服は咸陽(秦の都)のアウトドアスポーツショップで買ってきたと言われても、一瞬信じてしまいそうです。
それから始皇帝自慢の兵馬俑を堪能したあと、会場の後半に至ると、前漢(前202~後8年)の兵馬俑が再び小さくなってしまうことに驚かされます。楯を手にした歩兵俑は50cm、騎馬俑は60cm程度しかありません。等身大の兵馬俑は、秦とともに忽然と姿を消してしまいました。始皇帝を守るために出現した彼らは空前絶後、まったく特異な存在だったのですね。
なぜ、紀元前210年代(今から2230年前)にだけ、等身大の人間像がつくられたのか。ひとつの理由として、ギリシャ彫刻の影響が遠く及んだことが推定されています。ギリシャとオリエントの文化が融合したいわゆるヘレニズムの時代でした。そのきっかけはアレクサンドロス大王の東方遠征(前330年ごろ)です。東征はインダス川にまで及び、のちにガンダーラ地方にギリシャ彫刻を思わせる仏像が誕生したことはよく知られています。兵馬俑には、中央アジア人(中国から見れば西域人)を思わせる容貌の持ち主もあるようです。ちなみに、アレクサンドロス大王は、秦の始皇帝のちょうど100年前の人でした。
14. 俑と殉葬
2022.8
説明されてもまだよくわからないのは、孔子の俑批判です。それを伝える『孟子』によれば、「孔子は「はじめて俑を作り出した者こそは、天罰で子孫が絶えるだろう」と申しましたが、それはあまりにも人間に似たものを作って、これを副葬品として埋めたからであります」(『孟子』梁恵王章句上、宇野精一訳、講談社学術文庫)。
孔子は、人間にそっくりの俑を副葬すれば、やがて殉葬をもたらすからいけないと主張したのです。しかし、孔子は「象人=人に象(かたどる)」と語ったのであり、「あまりにも」は訳し過ぎ(宇野先生)、「そっくり」も言い過ぎ(これは私)のような気がします。人の姿に似せたものをつくれば、それだけである力を持ってしまうことは、会場のはじめの展示ケースに並んでいた「玉人」を見てもわかります。男女の区別あり、何らかの祭祀に用いられたようです。
私は人形(ひとがた)を人に代わるもの=形代(かたしろ)ととらえてきましたから、殉葬の代わりに俑が生まれたとばかり思っていました。孔子(前552/551~前479)は始皇帝よりもおよそ300年前の人、そのころは秦でも殉葬が行われており、戦国時代に入った前384年には殉葬の制度が廃止されました。始皇帝も殉葬をさせず、したがって、兵馬俑は殉葬の代わりを果たしていたことになります。陵墓近くからは文官俑も見つかっています。
ちなみに、殉葬とは墓主の死に合わせて殺され、埋葬されること、陪葬とは一族や臣下が死んだあとで、墓主のそばに埋葬されることです。
私の疑問は、
1 なぜ始皇帝だけ等身大か?
2 世界に見られる副葬品の人型の像は、殉死に替わるものか?
1 は、昨日の鶴間先生の記事で、①秦の西戎(せいじゅう) 文化の賜(たまもの)、②西方文化の影響、③始皇帝の遺志 とありました。さらに加えるならば、莫大な経済力、動員力があったのでしょう。
2は、エジプトや、日本の埴輪も、中国のように殉死に替わるものか?というものです。下に紹介した論文にも見られるように、時期のずれの大きさがそうとは言えないことを物語っています。