中国の長い歴史の中で、なぜ始皇帝だけが大き兵馬俑を作ったのか」。その答えを簡潔にまとめるならば、①秦の西戎(せいじゅう) 文化の賜(たまもの)、②西方文化の影響、③始皇帝の遺志というものになるでしょう。秦文化は、中華の文化からは西の戎(えびす) の文化とみられ、馬や鹿などを丁寧に埋葬する習俗が、等身大の兵馬俑の発想を生み出したと考えられます。 一方、人間をリアルで等身大に描く発想は、ユーラシアの西方のギリシャ文化と関係があるのではないかと推測され始めています。 始皇帝の遺志という観点は、私自身、最後に気づいたことです。
兵馬俑には始皇帝の姿がまったくありません。 中国の皇帝はローマ皇帝とは違い、姿を見せないことに権威があると考えられているからです。8000体もの兵馬俑の制作を命じたのは始皇帝の死後の二世皇帝であったとの意見もあります。
しかし、50歳で亡くなった始皇帝は臨終の身でみずからの葬儀の遺詔(いしょう)を下しました。 20歳で戦乱の中みずからの陵墓と陵墓を守る都市を築き始めたことが、最近出土した簡牘(かんとく)から分かっています。 38歳で天下を統一する以前から始皇帝は、しっかりとみずからの墓のプランを描き、死に備えていたのです。それは、臣下の殉葬やリアルな俑を批した孔子の教えに反する命令を下すことでもありました。兵馬俑の姿からは、始皇帝の強い想(おも)いが読み取れます。中国史上初めての皇帝であったことが前例のない兵馬俑を生み出したのです。 そもそも①②の歴史の流れを受け入れたこと自体、 始皇帝個人 の「人間力」であったと私は考えます。 そこに歴史の面白さがあります。巨大な兵馬俑群は、始皇帝という人間と彼を取り巻く時代の産物であったのです。
私は、以前「等身大の兵馬俑は、ヘレニズム文化の影響があるのではないか?」と憶測で書きましたが、鶴間和幸先生もそう述べられています。