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萩原宿・起宿-4-

2025-03-13 07:25:04 | 取材・旅行

萩原宿・起宿-4

2025年3月9日(土)、愛知ウォーキング城巡りクラブ(AWC) 一宮市の美濃路・萩原宿~起宿ウォーキング散策見学会へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、6回にわたって紹介しています。今日はその第4回。

今回訪問したところです。2枚続きです。

    

今回取り上げるところです。

第2回 天神の渡し跡 の続きからです。

美濃路を北東へ向かいます。

わが家にもありました。のこぎり屋根の繊維工場です。明り取りが北へ向いているので、方角がわかります。


首池 です。蓮池字首池 という地名にもなっています。

戦国時代に起きた小牧・長久手の戦いがもとで付いた地名といわれています。

川向うに加賀野井城があります。

その説明です。

文字起こししてみましょう。


この城の築造年代は明らかでないが、天正年間(一五七三年~一五九一年)には加賀野井弥八郎望(かがのい やはちろう しげもち)が織田信雄の臣下となり、四百十五貫文万石を領して城主となっていた。
本能寺の変 (天正十年 五八二)の後、豊臣秀吉と主筋織田家との間に対立が生じ、 天正十二年四月長久手において戦ったが、豊臣方の大敗となり、翌五月緒戦の雪のため一転して当城を取撃した。
城中には信雄の兵二千余騎も加わり必死に防だが、豊臣方十万の大軍の前に抗しきれず、 城の明け渡しと、命を条件に調和を申し入れたが秀吉は受け入れなかった。 そのため、五日夜に乗じ大手門より打って出て、最後の決戦を試みた。
敵せず城兵は枕を並べて討死し、城主秀望は辛くも脱出して関東にて落城するに至った。


ここで打ち取られた兵の首を運び、並べたのが首池の前の道沿いです。

秀吉も首を見物し、最後には首を池に投げ込んだのでしょうか。

一般的に、秀吉は降伏した兵は穏便に扱います(信長の命令は除きます)。

しかしここでは降伏を拒否し討死にさせました。

秀吉にとって、長久手での敗戦がいかに悔しかったかがわかるエピソードです。

 

現在の地形図です。首池あたりの土地が低いことがわかります。

参考は次の書です。私も手元に置いています。

またまた秋葉神社。


秋葉神社を過ぎると、道が二手に分かれます。左が美濃路。


冨田一里塚

美濃路の現存一里塚がこの冨田一里塚。

道の両脇に一里が残っているのはここだけです。

碑です。

2本の榎です。当時の道幅がわかります。以外に広い!

「文化財ナビ愛知」によれば、西塚のエノキ(向こう側)の胸高幹周/2.2m、東塚(手前)は胸高幹周/1.7m。

説明板がありました。

パーツごとに紹介します。読めますね。

次は・・・・

もう一つ、久徳一里塚が現存しています。

かつての写真です。


説明板の横に、道標がありました。

その解説版です。

文字起こししてみましょう。


冨田の道標
 右側道標は、元は冨田字立石地内の美濃路(おこし道)から津島へ抜ける道(つしま道)の西南角(地図1)に、弘化三年(一八四六)五月に建てられました、昭和四十四年(一九六九) 冨田保育園に移さ
れたのち。起の尾西歴史民俗資料館を経て、平成二十六年(二〇一四)三月二十七日、現在地に移されました。石柱の四面に文字が刻まれていますが、長年、風雨にさらされていたので読み取りにくく、現在では僅かに「左 おこし道」「右 つしま道」が読み取れます。『津島江の道標』(一九七一年刊)によれば、右面に「弘化三年丙午五月」、裏面に「安国道中安全」と刻まれています。

 左側の道標は、言い伝えによると、元は立石地内にある「左駒塚道」の道標の場所(地図②)に建てられ、通行量が多くなり慶応三年(一八六七)に建て替えられたようです。その後、かつて牛池地内の駒塚道沿いにあった「豊臣秀吉駒繋ぎの杉」の場所(地図③)から、冨田保育園、尾西歴史民俗資料館を経て、右の道標とともに現在地に移されました。おそらく建立年が刻まれていたと思いますが、長年の風雨によって、文字は風化し、僅かに「是より左 こまつか渡場道」のみが読み取れます。
                                一宮市


下の図で確認してください。


さらに美濃路を北上します。

ここで追分がありました。

右へ行くと美濃路

左が駒塚道です。

当時のままの石製道標が道路西側に建っています。

駒塚道って何?

駒塚道美濃駒塚領主石河(いしこ)正章が享保11年(1726)自領から名古屋への参勤のために駒塚渡しとともに開設した街道です。

美濃路の脇往還で大垣城下へ続く竹鼻街道と接続しています。

すなわち、東海道~中山道の 脇脇往還 ということになります。

言い方を変えると駒塚道 石河氏の私道といえるかもしれません。


そのためか、かなり細い道となっています。


中嶋一族発祥地

 

中嶋家由緒の石

Wikipediaによると

中島氏(尾張)は、嵯峨天皇第十二子河原院(左大臣源融)の末裔、嵯峨源氏に属する。また、神魂尊の末裔。1221年承久3年)6月5日に尾張国中島郡に土着し、地名をとって中島氏を称するようになる。源融十三代の子孫が初めて「中島左衛門尉宣長」と名乗り、同地を領したとされる。七手組中島氏種は尾張中島氏に属する。


家紋は、丸に三つ引き、丸に三つ星紋は、三浦氏系の源氏に多い家紋だそうです。

近くの民家にもありました。

 

「木曽川築堤水位を計りし石柱なり」

築堤からの移設物でしょうか?

(画像出典 https://ameblo.jp/ksmr9tks3/entry-12867017033.html


中島城 は 中島地区 の中心です。

かつては、稲沢地区と共に中島郡とも呼ばれていました。

出典 https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcScwYyIgK-2ijhKi1DU8xFyBHFkxgXZ7wzClg&s

「中島氏」の影響の大きさが分かります。


明日第5回に続きます。

萩原宿・起宿-1- -2- -3- -4-


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