今日は、江南市で、横田教育文化事業弁論大会が開催されます。
かなり過ぎてしまった話で恐縮ですが、9月13日は「世界の法の日」でした。
どのようないきさつでこの日が決まったのでしょうか?
実は、昭和36年9月東京で開催された「法による世界平和に関するアジア会議」で、時の最高裁長官 横田喜三郎が、その制定を提唱したのです。
その結果、昭和40年9月13日から20日までワシントンで開催された「法による世界平和第2回世界会議」で、国際間に法の支配を徹底させることで世界平和を確立させようと宣言されたことを記念して、9月13日を「世界法の日」とすることが決まったのです。
じつは、この横田(旧姓 岩田)喜三郎は、江南市赤童子の出身です。
横田喜三郎は、最高裁判所第3代長官で、平成5年に他界するまで、多くの著書・論文を発表した、国際法の世界的な権威です。
次のようなエピソードがあります。
○ 昭和6年、日本の関東軍が満州事変を引き起こすと、日本政府のとった行動は自衛権の範囲を超えるものとして、軍部に対し鋭く批判をしました。
時代が時代ですから、右翼団体や政治家などから激しい非難を浴びました。
しかし、彼はその後も国際連盟によって満州事変が平和的に解決されることを望むとした評論や、国際連盟脱退はかえって大きな不利益を生じると指摘した評論を発表しました。
○ 戦後、日本の憲法が定められたとき、彼の提案によって、それまでの片仮名文語から、平仮名口語で表記されることになりました。
これにより、憲法がより民衆に分かりやすく親しみやすいものになり、民主化に大きく寄与しました。
○ 憲法第9条の平和主義を論じ、日本が徹底した民主主義に進むべきことを主張して広く社会に影響を与えました。
横田喜三郎は、常に民衆の立場から考え、法律の権威として、法は弱者のためにあるという信念を貫いた人でした。
ただ、東京裁判に大きな影響を与えた『戦争犯罪論』などの著書には、今でも賛否が分かれているようです。
また、猪口邦子参議院議員は横田喜三郎の孫にあたります。
かなり過ぎてしまった話で恐縮ですが、9月13日は「世界の法の日」でした。
どのようないきさつでこの日が決まったのでしょうか?
実は、昭和36年9月東京で開催された「法による世界平和に関するアジア会議」で、時の最高裁長官 横田喜三郎が、その制定を提唱したのです。
その結果、昭和40年9月13日から20日までワシントンで開催された「法による世界平和第2回世界会議」で、国際間に法の支配を徹底させることで世界平和を確立させようと宣言されたことを記念して、9月13日を「世界法の日」とすることが決まったのです。
じつは、この横田(旧姓 岩田)喜三郎は、江南市赤童子の出身です。
横田喜三郎は、最高裁判所第3代長官で、平成5年に他界するまで、多くの著書・論文を発表した、国際法の世界的な権威です。
次のようなエピソードがあります。
○ 昭和6年、日本の関東軍が満州事変を引き起こすと、日本政府のとった行動は自衛権の範囲を超えるものとして、軍部に対し鋭く批判をしました。
時代が時代ですから、右翼団体や政治家などから激しい非難を浴びました。
しかし、彼はその後も国際連盟によって満州事変が平和的に解決されることを望むとした評論や、国際連盟脱退はかえって大きな不利益を生じると指摘した評論を発表しました。
○ 戦後、日本の憲法が定められたとき、彼の提案によって、それまでの片仮名文語から、平仮名口語で表記されることになりました。
これにより、憲法がより民衆に分かりやすく親しみやすいものになり、民主化に大きく寄与しました。
○ 憲法第9条の平和主義を論じ、日本が徹底した民主主義に進むべきことを主張して広く社会に影響を与えました。
横田喜三郎は、常に民衆の立場から考え、法律の権威として、法は弱者のためにあるという信念を貫いた人でした。
ただ、東京裁判に大きな影響を与えた『戦争犯罪論』などの著書には、今でも賛否が分かれているようです。
また、猪口邦子参議院議員は横田喜三郎の孫にあたります。