今朝は新聞休刊日なので、昨日のコラムを紹介します。
朝日新聞
・ 陸上男子100メートルで10秒の壁を破った東洋大の桐生祥秀さん(21)は、子どもの頃から俊足で鳴らした。付いたあだ名は「ジェット桐生」。桐生と気流をかけた愛称だ
▼だが小学校の徒競走では2番だったこともある。所属したサッカーチームでは意外にもキーパーだった。陸上に打ち込んだのは中学から。進学した高校は100メートルの直線がとれないほど練習場が狭かったが、3年生の春に10秒01をたたき出す。歴代2位の記録で一躍脚光を浴びた
▼歴代1位は伊東浩司さんが1998年に出した10秒00。優れたスプリンターたちが挑んだが、越えられそうで越えられない。10秒の壁が日本陸上界に立ちはだかった
▼走法理論に詳しい深代千之(せんし)・東京大教授(62)によると、かつて日本は「ロケットスタート」の国として知られた。加速、等速、減速という3局面の最初で力を使い果たす。それが60年代まで「日本らしい負け方」とされた
▼理論上、脚力は体格だけには左右されない。問題はアクセル役の筋肉とブレーキ役の筋肉をどう使うか。「腰のキレ」次第では日本選手も世界に伍(ご)していけるそうだ
▼欧米の陸上界に「れんがの壁」と言われた記録があった。中距離の1マイル(約1600メートル)走の「4分の壁」だ。永遠に破れないと評されたが、54年に英国選手によってひとたび破られるや、次々と20人以上が続いた。今回、日本陸上界で10秒の壁が崩れた。堰(せき)を切ったように9秒台が相次ぐか。百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の季節を迎えそうな予感がする。
毎日新聞
・ 東京湾の埋め立て地の一角に東京都江東区の枝川地区はある。「十畳長屋」と呼ばれるトタン壁の住宅が昔の面影をわずかに残している。1941年、当時の東京市が、周辺に住む在日コリアンを強制移住させた
▲40年の開催を目指した東京五輪の関連施設をつくるのが目的だった。日中戦争で五輪は幻に終わったが、市は住民の反対を押し切って計画を進める。ゴミ焼き場のハエに悩まされる土地に1000人を超えるコリアン街ができた
▲住民は助け合って暮らした。45年3月10日の東京大空襲。総出で消火し、下町が焼け野原となる中で、枝川は焼失を免れる。そこへ押し寄せたのは被災した大勢の日本人だ
▲「東京のコリアン・タウン 枝川物語」(「江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会」編)に証言が残る。「(被災者は)何千人じゃないかなー。みんなで炊き出しをやって助けたんですよ、握り飯やどぶろくを出してね」。住民は食べ物や着物を惜しまず与えた
▲下町には関東大震災の時に多くの朝鮮人が虐殺された過去がある。虐殺はあったのかと問われた小池百合子都知事は「さまざまな見方がある」と明言を避けた。日本人に虐げられてもなお、空襲の被災者に手を差し伸べた枝川の住民がいたことを思わずにはいられない
▲枝川の街から運河を一つ越えれば、五輪開催で開発に沸く豊洲地区だ。五輪を控えて小池知事が掲げる「ダイバーシティー」とは、国籍や性別に関わらず、人の多様性を尊重する社会を意味している。
日本経済新聞
・ 万一、北朝鮮から日本にミサイルが撃ち込まれた場合、どうするのか。対処をめぐる議論を聞いて、「後(ご)の先(せん)」という言葉が頭に浮かんだ。武道の教えにある。先に攻撃してきた相手の動きを見切り、かわし、逆にこちらが制する。当然、高い技量や経験が必要になる。
▼さてこれがミサイル攻撃にも通用するだろうか。政府は洋上のイージス艦と、地上に配備したミサイルで迎撃する構えだが、簡単なことではなかろう。予告もなく、高高度で、複数の弾頭が飛来するならなおさらだ。それで政府内には、発射される前に我が方から敵の基地をたたいてしまおう、とする考え方もあるという。
▼こちらは武道でいう「先(せん)の先(せん)」になる。相手が動く直前に動いて制する。だが何をもってミサイル発射の「直前」と見なすのかは難しい。専守防衛との関係もあるだろう。ミサイルが発射された際に住民に避難を呼びかけるJアラートの不具合などを見ていると、そもそも正確な察知ができるのかどうか心もとない限りだ。
▼日本の混乱をよそに、きのう建国記念日を迎えた北朝鮮には、挑発の矛を収めるような兆しは見受けられない。武道の極意は「戦わず鎮める」にある。戦いが招く結果を理解する判断力が相手に求められるから、難題には違いない。それでも北朝鮮を対話の場へ誘い出すため、制裁強化へ各国の足並みをそろえるしかない。
産経新聞
・ 世の中の電源が一斉に落ちたらどうなるか。「スマホでググる」ができないのは諦めがつくとして、電話自体がつながらない。電子マネーが使えない不便には目をつむるとして、現金を引き出すATMが動かない。
▼情報通信網や先端機器に覆われた社会は作りが繊細である。厄介なのは暗転が音もなく訪れることだろう。〈「停電が起きた瞬間」とは、「何も起きなくなった瞬間」なんだ〉。今年2月に映画化された小説『サバイバルファミリー』(矢口史靖(しのぶ)著)の一節にある。
▼当節は、停電だけに備えればいいという時勢でもない。通信機器の誤作動などを生む太陽フレアに加え、無法者がもたらす脅威も低く見積もるわけにはいかなくなった。9日に建国記念日を迎えた北朝鮮が、しきりに喧伝(けんでん)する「電磁パルス(EMP)攻撃」である。
▼上空で核爆発を起こし、強力な電波の一撃で地上の電子機器を麻痺(まひ)させる。いわば「電源が落ちた」世界はコンピューター登場以前に戻り、復旧に数年かかるという。その戦力を北が得たかどうか冷静に見極める必要があるとして、インフラ網の防御は急務だろう。
▼昨年秋は首都圏で、この夏は大阪で起こった大規模停電が記憶に新しい。ミサイルという甚だ危険で迷惑な挑発も、われわれが踏みしめる地盤の危うさを直視するにはいい機会であろう。要は、国際社会の連携と圧力で押さえ込み、北に何も撃たせないことである。
▼きょう書いた原稿が翌朝には活字になってお茶の間に届く。当方は紙媒体というアナログの業界に携わる身だが、便利なサービスが繊細な社会基盤の上に成り立っていることには変わりない。電源が落ち、世の中が暗転しては困る。ガリ版刷りの壁新聞も味わいは悪くないのだが。
中日新聞
・ 日本陸上の男子100メートルで最初に10秒台を記録したのは一九二五(大正十四)年の谷三三五(たにささご)の10秒8という。追い風五メートルの中での達成と聞くから現在のルールでは参考記録だが、ともかくも10秒台である
▼この選手、グリコのキャラメルにあしらわれているゴールするランナーのモデルのお一人。両手を上げ、満面笑みのあのランナーばりに喜びたくなる日本陸上界の悲願達成である。桐生祥秀選手が9秒98を記録。日本人初の9秒台である
▼谷から九十二年。「暁の超特急」吉岡隆徳(たかよし)の10秒3(三五年)、飯島秀雄の10秒1(六四年・手動計時)、伊東浩司(九八年)の10秒00…。日常生活では気にも留めぬ、わずかな秒刻を少しずつ削るように短縮してきた長い歳月を思う
▼世界記録9秒58のボルトは身長一メートル九六。9秒74のガトリンは一メートル八五。9秒台には歩幅が広く、それが有利になる大柄な選手がひしめいている。その中で桐生は一メートル七六。比較すれば、体格に違いのある日本人にとって10秒の壁がいかに高く険しかったことか。そしてそれを今越えた
▼今年は苦しい時期が続いていたそうだ。六月の日本選手権決勝では四位、八月の世界選手権では100メートル代表から外れた。「今に見ておれ」の火がついたのだろう
▼スプリンターにはもちろん、追い風が有利に働く。が、逆風もまた背中を強く押してくれるものらしい。
※
朝日新聞
・ 陸上男子100メートルで10秒の壁を破った東洋大の桐生祥秀さん(21)は、子どもの頃から俊足で鳴らした。付いたあだ名は「ジェット桐生」。桐生と気流をかけた愛称だ
▼だが小学校の徒競走では2番だったこともある。所属したサッカーチームでは意外にもキーパーだった。陸上に打ち込んだのは中学から。進学した高校は100メートルの直線がとれないほど練習場が狭かったが、3年生の春に10秒01をたたき出す。歴代2位の記録で一躍脚光を浴びた
▼歴代1位は伊東浩司さんが1998年に出した10秒00。優れたスプリンターたちが挑んだが、越えられそうで越えられない。10秒の壁が日本陸上界に立ちはだかった
▼走法理論に詳しい深代千之(せんし)・東京大教授(62)によると、かつて日本は「ロケットスタート」の国として知られた。加速、等速、減速という3局面の最初で力を使い果たす。それが60年代まで「日本らしい負け方」とされた
▼理論上、脚力は体格だけには左右されない。問題はアクセル役の筋肉とブレーキ役の筋肉をどう使うか。「腰のキレ」次第では日本選手も世界に伍(ご)していけるそうだ
▼欧米の陸上界に「れんがの壁」と言われた記録があった。中距離の1マイル(約1600メートル)走の「4分の壁」だ。永遠に破れないと評されたが、54年に英国選手によってひとたび破られるや、次々と20人以上が続いた。今回、日本陸上界で10秒の壁が崩れた。堰(せき)を切ったように9秒台が相次ぐか。百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の季節を迎えそうな予感がする。
毎日新聞
・ 東京湾の埋め立て地の一角に東京都江東区の枝川地区はある。「十畳長屋」と呼ばれるトタン壁の住宅が昔の面影をわずかに残している。1941年、当時の東京市が、周辺に住む在日コリアンを強制移住させた
▲40年の開催を目指した東京五輪の関連施設をつくるのが目的だった。日中戦争で五輪は幻に終わったが、市は住民の反対を押し切って計画を進める。ゴミ焼き場のハエに悩まされる土地に1000人を超えるコリアン街ができた
▲住民は助け合って暮らした。45年3月10日の東京大空襲。総出で消火し、下町が焼け野原となる中で、枝川は焼失を免れる。そこへ押し寄せたのは被災した大勢の日本人だ
▲「東京のコリアン・タウン 枝川物語」(「江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会」編)に証言が残る。「(被災者は)何千人じゃないかなー。みんなで炊き出しをやって助けたんですよ、握り飯やどぶろくを出してね」。住民は食べ物や着物を惜しまず与えた
▲下町には関東大震災の時に多くの朝鮮人が虐殺された過去がある。虐殺はあったのかと問われた小池百合子都知事は「さまざまな見方がある」と明言を避けた。日本人に虐げられてもなお、空襲の被災者に手を差し伸べた枝川の住民がいたことを思わずにはいられない
▲枝川の街から運河を一つ越えれば、五輪開催で開発に沸く豊洲地区だ。五輪を控えて小池知事が掲げる「ダイバーシティー」とは、国籍や性別に関わらず、人の多様性を尊重する社会を意味している。
日本経済新聞
・ 万一、北朝鮮から日本にミサイルが撃ち込まれた場合、どうするのか。対処をめぐる議論を聞いて、「後(ご)の先(せん)」という言葉が頭に浮かんだ。武道の教えにある。先に攻撃してきた相手の動きを見切り、かわし、逆にこちらが制する。当然、高い技量や経験が必要になる。
▼さてこれがミサイル攻撃にも通用するだろうか。政府は洋上のイージス艦と、地上に配備したミサイルで迎撃する構えだが、簡単なことではなかろう。予告もなく、高高度で、複数の弾頭が飛来するならなおさらだ。それで政府内には、発射される前に我が方から敵の基地をたたいてしまおう、とする考え方もあるという。
▼こちらは武道でいう「先(せん)の先(せん)」になる。相手が動く直前に動いて制する。だが何をもってミサイル発射の「直前」と見なすのかは難しい。専守防衛との関係もあるだろう。ミサイルが発射された際に住民に避難を呼びかけるJアラートの不具合などを見ていると、そもそも正確な察知ができるのかどうか心もとない限りだ。
▼日本の混乱をよそに、きのう建国記念日を迎えた北朝鮮には、挑発の矛を収めるような兆しは見受けられない。武道の極意は「戦わず鎮める」にある。戦いが招く結果を理解する判断力が相手に求められるから、難題には違いない。それでも北朝鮮を対話の場へ誘い出すため、制裁強化へ各国の足並みをそろえるしかない。
産経新聞
・ 世の中の電源が一斉に落ちたらどうなるか。「スマホでググる」ができないのは諦めがつくとして、電話自体がつながらない。電子マネーが使えない不便には目をつむるとして、現金を引き出すATMが動かない。
▼情報通信網や先端機器に覆われた社会は作りが繊細である。厄介なのは暗転が音もなく訪れることだろう。〈「停電が起きた瞬間」とは、「何も起きなくなった瞬間」なんだ〉。今年2月に映画化された小説『サバイバルファミリー』(矢口史靖(しのぶ)著)の一節にある。
▼当節は、停電だけに備えればいいという時勢でもない。通信機器の誤作動などを生む太陽フレアに加え、無法者がもたらす脅威も低く見積もるわけにはいかなくなった。9日に建国記念日を迎えた北朝鮮が、しきりに喧伝(けんでん)する「電磁パルス(EMP)攻撃」である。
▼上空で核爆発を起こし、強力な電波の一撃で地上の電子機器を麻痺(まひ)させる。いわば「電源が落ちた」世界はコンピューター登場以前に戻り、復旧に数年かかるという。その戦力を北が得たかどうか冷静に見極める必要があるとして、インフラ網の防御は急務だろう。
▼昨年秋は首都圏で、この夏は大阪で起こった大規模停電が記憶に新しい。ミサイルという甚だ危険で迷惑な挑発も、われわれが踏みしめる地盤の危うさを直視するにはいい機会であろう。要は、国際社会の連携と圧力で押さえ込み、北に何も撃たせないことである。
▼きょう書いた原稿が翌朝には活字になってお茶の間に届く。当方は紙媒体というアナログの業界に携わる身だが、便利なサービスが繊細な社会基盤の上に成り立っていることには変わりない。電源が落ち、世の中が暗転しては困る。ガリ版刷りの壁新聞も味わいは悪くないのだが。
中日新聞
・ 日本陸上の男子100メートルで最初に10秒台を記録したのは一九二五(大正十四)年の谷三三五(たにささご)の10秒8という。追い風五メートルの中での達成と聞くから現在のルールでは参考記録だが、ともかくも10秒台である
▼この選手、グリコのキャラメルにあしらわれているゴールするランナーのモデルのお一人。両手を上げ、満面笑みのあのランナーばりに喜びたくなる日本陸上界の悲願達成である。桐生祥秀選手が9秒98を記録。日本人初の9秒台である
▼谷から九十二年。「暁の超特急」吉岡隆徳(たかよし)の10秒3(三五年)、飯島秀雄の10秒1(六四年・手動計時)、伊東浩司(九八年)の10秒00…。日常生活では気にも留めぬ、わずかな秒刻を少しずつ削るように短縮してきた長い歳月を思う
▼世界記録9秒58のボルトは身長一メートル九六。9秒74のガトリンは一メートル八五。9秒台には歩幅が広く、それが有利になる大柄な選手がひしめいている。その中で桐生は一メートル七六。比較すれば、体格に違いのある日本人にとって10秒の壁がいかに高く険しかったことか。そしてそれを今越えた
▼今年は苦しい時期が続いていたそうだ。六月の日本選手権決勝では四位、八月の世界選手権では100メートル代表から外れた。「今に見ておれ」の火がついたのだろう
▼スプリンターにはもちろん、追い風が有利に働く。が、逆風もまた背中を強く押してくれるものらしい。
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