哲学チャンネル より コミュニタリアニズム(共同体主義)【正義と善#9】を紹介します。
ここから https://www.youtube.com/watch?v=69AwXCrw5wo&t=5s
動画の書き起こし版です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こんにちは。哲学チャンネルです。 サンデルはロールズの『無知のヴェール』による仮想的契約に2つの批判点を見いだします。 一つは正義と善の関係。 ロールズは善よりも正義を優位に置いていました。 ここでいう正義とは『正しいこと』または『それぞれが合意したルールによって 正しく問題解決されること』です。 一方で善とは『特定の個人や社会にとって、自己をより幸福にしてくれることやその状態』です。 ロールズはそれぞれの善は多様なのでそれを元に社会のルールや法を定めるべきではないと考えました。 そうではなくて、全ての人が合意できる正義に限定してルールや法を整備すべきだと。 これは明らかに善よりも正義を重視している考え方です。 彼は『正義は特定の善に依拠しない』とも述べています。 つまりロールズは、個人の権利が保護され、正義が成り立つ範囲でのみ善の追求が許されるといっているわけですね。 一方でサンデルは、正しいことよりも善いこと、またはその共同体の目的の方が重視されるべきと主張します。 もう一つの批判点は『無知のヴェール』それ自体に対するものです。 ロールズは一人ひとりが独立した存在であり、 それぞれが自由に善を選べると想定していました。 だからこそ、その『自由な善』を排除した思考実験によって 万人に当てはまるような共通の正義を模索したのでしたね。 しかしサンデルはこの思考実験を『虚構』であると批判します。 自分の生まれ持った条件をまったく知らない存在は『負荷なき自己』であり そのような人間は存在しないため無知のヴェールは机上の空論でしかないといいます。 実際には人々は自分の所属する共同体の価値観に影響されていて そこからまったく独立することはできない。 このような自己を『負荷なき自己』と対比して『位置づけられた自己』と表現します。 つまり、仮に無知のヴェールによって仮想上の契約を得たとしても それはあくまでも個人が共同体に影響されない環境においての契約でしかなく 現実には属する共同体によって人々の善は変化するし、 それを一律な正義で縛ることは出来ないのではないか? また、ロールズが考える分配、そしてその根幹を成す格差原理が人々に認められるためには 人々に強いコミュニティ感覚がないと成り立たないと考えられます。 それはそうですよね。 「才能も努力も公共の財産である」という理論は ある程度自身がコミュニティの一部であるという感覚を持っていないと 到底受け入れられるものではありません。 ですから、ロールズが考える分配を成功させるためには 人々に共同体への強い貢献意欲がなければいけなくて その貢献意欲があるということは、人々は共同体から大きな影響を受けているはずなので より【無知のヴェール】が現実と乖離したものになってしまうのです。 (ちなみにロールズはこの批判などを受けてその後の論文では無知のヴェールの解釈を修正しています) このような前提の元、サンデルはこう考えます。 「正義は人々が契約によって合意するものではなく 共同体単位でそこに属する人々で発見していくものである」 「正義は善から切り離されて存在することは出来ない。 正義は善と関係して存在する」 「正義は共同体から独立して存在するものではない。 それぞれの共同体ごとに定義されるものである」 このように、普遍的・単一的な価値観ではなく 文化的な共同体~例えば国家や地域や家族~ の中で培われる価値観を重視する政治哲学の立場を 【共同体主義(コミュニタリアニズム)】と呼びます。 コミュニタリアニズムにおいては、 アリストテレスで見たように共同体の【目的(善)】を追求します。 もちろん共同体主義にも様々な批判が投げかけられます。 その中でも代表的なものは 『共同体主義の思想は全体主義化の危険性を孕んでいるのではないか?』 ということです。 共同体を一つの『主義』と捉えると、 その主義の外には他のあらゆる主義が存在することになります。 共同体を重視すればするほどその軋轢は激しくなり、 他の主義を排除する傾向が強くなる可能性があります。 共同体にとっての『善いこと』が他の共同体にとっての『悪いこと』だった場合 その協調をどのように実現すれば良いのでしょうか? こうなると議論はまた振り出しに戻ってしまう気さえします。 プリンストン大学の名誉教授だったジョージ・カテブも 共同体主義が批判するリベラリズムの問題点よりも『恭順さ』の方が悪いものであると述べました。 恭順さを持つ人々は悪い意味で流動的であり、 非合理な共同体の判断にも従ってしまう。 これに対抗できるのは徹底的な自由主義のみだとしました。 このような議論は『リベラル・コミュニタリアン論争』と呼ばれ 特にアメリカ思想史を語る上では避けられない論争とされています。 とは言え、サンデルの主張を拡大解釈すると 「正解のない問いだからこそ、正しい正しくないで片付けるのではなく 議論を続けることが何よりも重要なのではないか?」 と表現することができます。 そして、アリストテレスも指摘した通り、 もしかしたらその『議論すること』自体が人間の目的因なのかもしれません。 いろいろな都合上、全編通してかなりざっくりとした内容になってしまいましたが このシリーズが『正義と善』を考える上で、また議論をする上でのきっかけになると幸甚です。 最後までお付き合いいただきありがとうございました。