お茶と権力 信長・利休・秀吉 (文春新書 1330)
室町から戦国にかけて、武士の文化として発展した「茶」。しかし、それは一方で政治のツールとしても活用されました。
なかでも信長は「名物」とされた茶道具を家臣たちに分け与えることで、自らの信頼の証とし、家臣統制に活用します。またそれは外交のツールでもあり、茶の文化をリードした堺の商人たちと深く交わる手段でもありました。
そのなかで、信長に重用された一人が、千利休であり、信長の戦略を継承したのが秀吉だった、と著者は説きます。
では、なぜ堺の商人のなかでも後発だった利休が重用されたのか? そして秀吉の側近として盤石の地位を築いたかに思われていた利休が突然失脚したのか?
著者の田中氏は大日本茶道学会会長、公益財団法人三徳庵理事長として茶道文化普及に努めるかたわら、徳川林政史研究所や徳川美術館で歴史・美術を研究。茶の道に精通した著者ならではの視点が光ります。
2022年10月13日に日本でレビュー済み
『お茶と権力――信長・利休・秀吉』(田中仙堂著、文春新書)で、とりわけ興味深いのは、●織田信長が津田宗及でなく、敢えて千利休を茶堂に起用したのはなぜか、●明智光秀は、いかにして本能寺での茶会情報を入手したのか、●豊臣秀吉が利休を追放したのはなぜか――の3つです。
●信長が利休を茶堂に起用したのはなぜか
「信長茶会での茶堂には、スポークスマンの役割が期待されていたことになる。(堺の商人として)必要なタイミングに必要な弾薬を届けてくれる利休には、自分の意図を汲んでのスポークスマンを十分にこなせるはずだと信長は見込んだとも考えられるが、弾薬の提供は蘭奢待の下賜の後の話である。私の仮説では、信長が利休を利用したのは、利休が宗及に比べて、商人としての身代が小さいからである。より身代の小さい利休をあえて起用した理由は2つ考えられる。第1には、信長は、自分も蘭奢待を下賜されるようになりたいとと他の堺衆にも思わせたかった点。・・・第2には、宗及よりも利休の方が、自分を頼りにするだろうという期待があったのではないか。つまり、信長にとって、利休は大身代の宗及よりも使い勝手のよい存在だった、と考えている。いずれの理由も推測にすぎないといってしまえばそれまでではあるが、秀吉や光秀といった『新参者』を重用していく織田家の人材活用パターンに沿っているともいえないだろうか」。
●光秀は、いかにして本能寺での茶会情報を入手したのか
「『(信長と嫡男の信忠が)京都で(徳川家康を招いて)茶会を開く』との情報を光秀が手に入れたために、本能寺の変へ踏み切った可能性はないだろうか。そもそも、光秀は、そのような情報をどのようにして入手できたのであろうか。・・・光秀は宗及から、信長が家康を招いて茶会を行うという計画を知ったのではないか。光秀が茶会の噂を問い糺しても、宗及は『光秀様もさぞ茶会にお出になりたいのだろうなあ』と思うだけだろう。自分の知っている範囲のことを伝えても二人(=信長と光秀)の関係からは不思議ではない。何しろ光秀は、毎年、信長から拝領した道具を茶席で披露しており、この年の正月には、信長から下賜された信長自筆の書を披露するくらいに覚えめでたいのだから。そして、宗及は毎年その茶会に招かれていたのだ。光秀は、茶会に関することだからということで怪しまれることなく、重要な情報を手に入れたのではないだろうか」。
●秀吉が利休を追放したのはなぜか
「天正19(1591)年正月22日、豊臣秀長がこの世を去ったのである。天正14(1586)年4月5日、大友宗麟にむかって秀長が語ったように、豊臣家の政治機構は、秀長と利休によって支えられていた。しかし、その後、九州を平定し、関東をも軍門に降す中で、豊臣家の政治機構は、弟と茶堂が支えるだけで運営できる規模を超えたといえる。それでも、秀長が存命の間は、秀長や利休にも一定の役割が与えられてきたと考えられる。・・・茶道具から官位へ、茶会から朝廷へと秀吉の権力を示威するツールが変わるにしたがい、利休の立場も変化していく。・・・利休の茶は、否応なく政治性を帯びることになってしまったのだ。したがって、利休には政治的には引退して、茶席に引き籠もるという選択肢は残されていなかった。だから、『追放』され、生命を断たれるほかなかったのである」。
「これまで茶道の歴史では、利休と並べて考える時に、『成り上がり者の黄金趣味の秀吉には、利休の<わび茶>が理解できなかった』といったように、秀吉の茶はたいていは否定的に捉えられてきた。しかし、本当にそうなのだろうか。秀吉の茶会は、『わび茶』ではないにしても、利休の理念に近い『一期一会』となっていったのではないか。・・・『一期一会』をめぐって、利休と秀吉の茶会の本質に対する理解は一致していた。したがって、追放の理由を利休と秀吉との茶会上の不和に求めようとしてきた試みは、十分な説得力を持ちえない宿命にあったのである、そもそも、利休の時代に、政治から独立した芸術のための芸術に命を懸けるような、近代西洋的な意味での芸術家は存在しえない。現代人にとってどんなに魅力的に響いたとしても、その時代に生まれていない概念でその時代の人々の行動を説明しようとすれば、破綻をきたすのは必定である」。
この著者の推考は、強い説得力を持っています。秀吉と利休の茶に対する考え方の齟齬が、利休失脚の理由ではなく、朝廷という新たな権力示威のツールを手にした秀吉にとって、茶会=利休というツールは、もはや必要ではなくなったのが真の理由だというのです。
読み応えのある一冊です。