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【ジル・ドゥルーズ(ガタリ)】西洋哲学解説【ポスト構造主義】【パラノとスキゾ】/哲学チャンネル

2021-08-04 06:10:54 | 哲学の窓

哲学チャンネルより 【ジル・ドゥルーズ(ガタリ)】西洋哲学解説【ポスト構造主義】【パラノとスキゾ】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=l1M5f3lQgoE

とっつきづらい哲学や心理学の内容を、出来るだけわかりやすく完結に お伝えすることを目的としたチャンネルです。 
 
【ドゥンス・スコトゥス】西洋哲学史 中世スコラ哲学解説【存在の一義性】 https://youtu.be/cBW5hwrQ5uQ ※書籍 ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 https://amzn.to/3dmYRha
 
動画の書き起こし版です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ドゥルーズは、1925年パリに生まれます。 それからの生涯、ほとんどパリを離れることはなかったと言われています。 後にパリ第8大学の教授となり、 肺病によって投身自殺をする1995年まで、様々な著作を世に残します。 ドゥルーズの特徴といえば、その哲学に対する切り口でしょう。 彼は、数学の微分概念を哲学に転用しました。 もう一度言います。 哲学の読解に微分の概念を使いました。 なんと言いますか、非常に中二心に訴えるものがありますね。 哲学の解読に数学を使うとか、無条件にカッコ良いです。 実際彼は、微分概念とドゥンス・スコトゥスが提唱した【存在の一義牲】の立場から ヒュームをはじめ、ニーチェ、カント、スピノザ、ベルクソンなど、 様々な哲学者の思想を独自に解釈して世に発表しました。 また、精神分析家であるフェリックス・ガタリと『ドゥルーズ&ガタリ』というユニットを組み、 共同でいくつかの書籍を出版したことも有名です。 ドゥルーズはデリダが西洋的な思考方法を批判したのと同様に、 それまでの西洋哲学の考え方に疑問を持ちました。 それまでの西洋的思考においては、 物事の関係性には何か体系的な仕組みが存在しているはずだと考えられてきました。 例えば、自然界の弱肉強食を図に表すとこのような感じです。 肉食動物がその頂点にいて、草食動物を捕食する。 草食動物は植物を食べて、植物は昆虫によって子孫を残し、 彼らの死骸を細菌などが分解する。 このように、何かしらの綺麗な法則の中に世界は組み込まれていると考えるのが それまでの西洋的な考え方だったのです。 ヘーゲル的な弁証法も、このような思考形式をとっているため、 その頂点に向けて止揚を繰り返していくのでした。 しかしドゥルーズは、西洋的な考え方は、その体系に組み込まれないものを排除してしまう危険な考え方だと指摘します。 彼は、本来世界には明確な秩序なんてものは存在せず、 バラバラの状態が続いているだけだと考えるのです。 それを人間が無理やり体系化しているだけだと。 西洋的な体系化の思考方法のことを【トゥリー(樹木)】といい、 ドゥルーズが提唱する思考方法を【リゾーム(根)】と表現します。 彼はその上で、世界は欲望によって形作られていると考えます。 欲望はただただ四方八方に好き勝手に飛び回り、 それが結果として様々な自然現象を生み出していると主張したのです。 欲望によって動かされている世界のことを【欲望機械】と呼びます。 人間についても同様で、我々は本来的に欲望の産物であり、 欲望の赴くままに生きたいという欲求を持っています。 しかし、その飛び回りたい欲望達を、社会や家庭が抑圧することによって 『自分はこういう人間だ』という型に押し込められてしまいます。 この型のことを【アイデンティティ】と呼びます。 アイデンティティが形作られると、その型通りに生きようという力が働き、 他人の評価を気にしたり、社会に縛られたりしながら生きることになります。 このような状態を【パラノイア(偏執症)】といいます。 一方で、自分の人格やアイデンティティを持たずに、 好き勝手に欲望のままに生きる存在のことを 【スキゾフレニア(分裂症)】といいます。 スキゾフレニアはリゾーム的な考え方のもと、 自分の欲望を素直に表現するばかりではなく、 他者の価値観もこだわりなく受け入れます。 ドゥルーズはこの対比から、リゾーム的な考え方、 そしてスキゾフレニア的な生き方こそ、人間が目指すべきものである。と主張しました。 ちなみに、パラノとスキゾというこの二つの概念は 1980年代に日本に輸入され、当時の社会情勢とマッチしたために 1984年の新語・流行語大賞の銅賞を受賞しています。 当時は竹の子族やホコ天の全盛期です。 社会的にそのような生き方に憧れが強かったのだと考えられますね。 ドゥルーズはさらに、スキゾ的生き方の理想型として 【ノマド(遊牧民)】を例に挙げます。 遊牧民は、定住する場所を持たず、常に移動しながら人生を過ごします。 一方で定住地を持つということは、 その場所に知財をため込むということになります。 知財が増えれば増えるほど、その場から身動きが取れなくなって 結局パラノイア的な生き方に自分自身を縛ることになってしまいます。 また、定住地を持っていると、仮に旅行にたくさん行ったとしても、 毎回毎回旅行先から知識を持って帰ってくるはいいものの、 結局は定住している自分の場所で構成されている価値観で、 旅行先の情報を判断しているに過ぎません。 ノマドは、定住地を持たないために、 あらゆる場所で偏見なくその場所の価値観を受け入れられる。 と考えられました。 このようなことから、ドゥルーズはノマド的な生き方をすることを推奨したわけですね。(ノマドになろうと言ったのではない) それがたった35年ほど前の話です。 現在では、ノマド的な生き方が過去に比べて実現しやすくなりました。 そして、これからそれはさらに顕著になるでしょう。 しかし、多くの人がそのような生き方を選択したら。 『国』という共同体は存続可能なのでしょうか? その辺りは我々以降の世代に課せられた大きな課題だと感じます。
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