さて、以前にいただいた質問です。
「(明治維新で)なぜ徳川家の屋敷(江戸城)に、天皇が住むようになったのですか?」
なるほど。自分では考えたこともない疑問です。
相手の家を取りあげてそこに住むというのは、考えにくいことです。
ここで史実を概観してみたいと思います。
大政奉還、王政復古の大号令の後、御所内の小御所において、明治天皇、諸藩の藩主や公家達が集まり、御前会議を開きました。
ここで、徳川家の力を奪うために、慶喜の辞官・納地が決定しました。
その処置に反発した旧幕府軍は鳥羽・伏見へ向けて進撃を開始し、鳥羽・伏見の戦いが始まりましたが、錦の御旗により、朝敵の汚名を受けた慶喜は江戸へ戻り、勝海舟に後を託します。
ここからは有名な話ですね。
山岡鉄太郎の仲立ちで行われた西郷と勝の会談により江戸城の無血開城が達成されたのです。
徳川氏は駿府へ移封が決まりました。
実はこの間に、大久保利通は大坂遷都を提案しています。
これに対して、前島密が江戸遷都論を提案し、その結果「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられたのです。
これ以後、東西両都が決議され、天皇が東京と京都を行き来することになったのですが、数回で終わり、以後東京が皇居として定着しました。
ここからは私見です。
江戸遷都には経済的な要因が大きかったと思います。
都をつくるには広大な土地が必要ですが、大坂にはすでに広い土地がないのに対して、江戸には広大な大名屋敷の土地がありました。
江戸城を皇居にすれば、警備上も助かります。
さらに江戸城に天皇が入るのは、国民に対して、主権が徳川氏から天皇にスムーズに移ったことをアピールすることができます。
政府から離れた所に御所を置くと、政務のために頻繁に東京通う必要があります。
反政府勢力が担いでしまう恐れもあります。担がれると、政府が朝敵にされてしまいますね。
私の京都の友人は、「東西両都の決議はまだ生きているので、天皇家は東京へ行っているだけで、また帰ってくる。」と言っています。
日本では法令上「首都」の定義・規定がされていないのです。
京都市民の遷都反対を受けて、東京を首都とする決めごとがないまま今に至ってしまいました。
しかし、「東京が日本の首都であるというそういう確信は、これは日本国民だれもが疑いなくそう信じていることであろうと存じます。」(昭和54年6月5日参議院内閣委員会における内閣法制局長官答弁)。
という答弁がなされています。
京都の人は信じていないかも?
「(明治維新で)なぜ徳川家の屋敷(江戸城)に、天皇が住むようになったのですか?」
なるほど。自分では考えたこともない疑問です。
相手の家を取りあげてそこに住むというのは、考えにくいことです。
ここで史実を概観してみたいと思います。
大政奉還、王政復古の大号令の後、御所内の小御所において、明治天皇、諸藩の藩主や公家達が集まり、御前会議を開きました。
ここで、徳川家の力を奪うために、慶喜の辞官・納地が決定しました。
その処置に反発した旧幕府軍は鳥羽・伏見へ向けて進撃を開始し、鳥羽・伏見の戦いが始まりましたが、錦の御旗により、朝敵の汚名を受けた慶喜は江戸へ戻り、勝海舟に後を託します。
ここからは有名な話ですね。
山岡鉄太郎の仲立ちで行われた西郷と勝の会談により江戸城の無血開城が達成されたのです。
徳川氏は駿府へ移封が決まりました。
実はこの間に、大久保利通は大坂遷都を提案しています。
これに対して、前島密が江戸遷都論を提案し、その結果「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられたのです。
これ以後、東西両都が決議され、天皇が東京と京都を行き来することになったのですが、数回で終わり、以後東京が皇居として定着しました。
ここからは私見です。
江戸遷都には経済的な要因が大きかったと思います。
都をつくるには広大な土地が必要ですが、大坂にはすでに広い土地がないのに対して、江戸には広大な大名屋敷の土地がありました。
江戸城を皇居にすれば、警備上も助かります。
さらに江戸城に天皇が入るのは、国民に対して、主権が徳川氏から天皇にスムーズに移ったことをアピールすることができます。
政府から離れた所に御所を置くと、政務のために頻繁に東京通う必要があります。
反政府勢力が担いでしまう恐れもあります。担がれると、政府が朝敵にされてしまいますね。
私の京都の友人は、「東西両都の決議はまだ生きているので、天皇家は東京へ行っているだけで、また帰ってくる。」と言っています。
日本では法令上「首都」の定義・規定がされていないのです。
京都市民の遷都反対を受けて、東京を首都とする決めごとがないまま今に至ってしまいました。
しかし、「東京が日本の首都であるというそういう確信は、これは日本国民だれもが疑いなくそう信じていることであろうと存じます。」(昭和54年6月5日参議院内閣委員会における内閣法制局長官答弁)。
という答弁がなされています。
京都の人は信じていないかも?