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【ヒューム】西洋哲学史解説【人間本性論】【知覚の束】/哲学チャンネル

2021-06-15 06:10:47 | 哲学の窓

哲学チャンネルより 【ヒューム】西洋哲学史解説【人間本性論】【知覚の束】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=5pBjEuN_lbs

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【関連した過去動画】
【ジョン・ロック】西洋哲学史解説【認識論】【タブラ・ラサ】 https://youtu.be/N8hhAniH_Ho
【ジョージ・バークリー】西洋哲学史解説【視覚新論】【人知原理論】 https://youtu.be/I7QO-3wOhUA
【書籍】 人性論 (中公クラシックス) https://amzn.to/2UL4v4P
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動画の書き起こし版です
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・観念連合 ヒュームは、それまでのロックやバークリーの主張である 『人間の認識は知覚に基づく経験である』という 基本的な考え方を継承し、さらに論理を徹底していきます。 まず彼は、経験がどのように認識に至るのかについて そのプロセスを説明します。 人間が知覚できる対象は2種類あります。 一つが【印象(インプレッション)】 これは外界から刺激をもたらされた瞬間の印象です。 例えば、リンゴを見て『赤い』と感じるのがそれにあたります。 直接感覚器官に訴えかけるこの印象を ヒュームは【力強い知覚】と表現しました。 二つ目は【観念(アイデア)】 過去の記憶や想像によって呼び起こされる観念です。 あのリンゴは赤かったな。と思い起こすことがそれにあたります。 印象に比べると、感覚器官から直接与えられた刺激ではないので、 いわば、ぼんやりした印象と表現することができます。 人間の認識は、この二つの知覚が結合したり加工されることによって 形成されると考えました。 その上で、印象や観念の結合や加工には『想像』が必要で その想像の働きには【観念連合】なる現象が影響しているのです。 観念連合は3つの原理が合わさったものです。 一つ目は【類似】 お互いに似た観念が想像によって結合する働きのことで 例えば、リンゴを見て梨を想像するのがそれにあたります。 二つ目は【接近】 時間や空間において近い関係の観念同士を結合する働きで、 リンゴを見ると八百屋さんの顔を思い出す。などがそれにあたります。 最後は【因果】 お互いの観念の関係性によって結合や加工が起きる働きで リンゴを食べて甘いと感じた経験からリンゴを見ると甘いと感じることがそれにあたりますね。 このようにヒュームは、 一つ一つの小さな知覚が重なり合い、加工されることで、 様々な認識や観念が生み出されていると考え、 それを体系化して説明したのです。 ・因果の否定 そして、ここからがヒュームの破壊者たる所以です。 まず、それまでは当たり前のように信じられてきた【因果】を否定します。 因果に関しては私たちも常識として信じていますよね。 例えば、指を切ると痛い。 これは因果関係と言えるし、ほとんどの人はそう思っているはずです。 指を切るという原因があるから、痛いという結果が現れる。 疑いようのない理論に思えます。 しかしヒュームは、因果はないと言います。 指を切ったことと、痛い思いをしているのは 両方とも確実ですが、 指を切った【から】痛いの【から】に関しては、 どう頑張っても知覚することができないと考えたのです。 ではなぜ人間は、本当はない因果なんてものを信じてしまうのでしょうか。 ヒュームはそれについても明確に解説します。 まず、因果関係を構成する要素は3つあると言います。 一つが【接近】 指を切るという行為と、痛いという感覚が近距離に存在していることですね。 二つ目が【継起】 原因と結果が時系列に並んでいることです。 この場合、痛いが先にあって指を切るのでは、それが経験として蓄積しません。 指を切った後に痛いという感覚が発生する必要があるのです。 三つ目が【必然的結合】 指を切ったら『必ず』痛い。という経験のことです。 指を切って痛いときと痛くないときが混在していてはダメ。ということです。 この三つの要素が満たされる経験を繰り返すことで、 それが習慣となり、最終的に信念に変わることで、 人間は本当はない因果を必然的なことだと信じ込むのだと考えたのです。 因果なんて、人の心が勝手に作ったものであって、 人間に備わったものでもなければ、 ましてや自然界の法則では決してないと考えたのです。 ・同一性の否定 さらにヒュームはもう一つそれまで信じられてきた常識を破壊します。 それが『同一性』です。 例えば、目の前にあるスマホやパソコンは、 絶対に昨日と同じスマホやパソコンだと言えるでしょうか? 私たちは自分を含めたあらゆる物質を、 連続性を持って認識していますが、 本当にそれは連続しているのでしょうか? 有名な【テセウスの船】という話があります。 ある船があって、その船は年月が経つにつれて、 どんどん劣化していき、部品を変えていくこととなった。 数十年後、最初に船に使われていた部品は全てなくなり、 新しい部品だけで構成された船がそこにあった。 このとき、最初の船と最新の船は『同一の船』と言えるだろうか? このパラドクスは同一性についての深い疑問を投げかけるものです。 仮に、両方の船が同じ船だと仮定した場合、 では古い部品を集めて再度作った船はなんなのか? また、両方の船は違う船だと仮定した場合、 じゃあいつ違う船になったのか? ヒュームは人間に関しても同じであると考えました。 人間は毎日1兆個の細胞が入れ替わっていると言います。 20代であれば、約28日で細胞が全て入れ替わると言われていますが、 では28日前の自分と、今の自分は同じ自分なのでしょうか? さらにヒュームは自我に関しても同じだと言います。 自我は日々新しいものを見たり経験したりすることで、 形を変えていきます。 細胞が入れ替わるのと非常に似ている構図ですよね。 では、1年前の自我と、そこから様々な経験をした自我が 連続した同じ自我だと言い切ることができるでしょうか。 ヒュームはこのことから、自我とは 『連続性のない単なる知覚の束である』 と表現しました。 これはショックですよね。 我々が当たり前に思っている、 こうしたらこうなる、のような因果関係や、 自分だと思っている自我が本当は存在しなくて、 単に知覚が集まってそう感じているだけなんだと言っているわけですから。 ただ、論理的に考えると、 簡単に否定できるようなものではないわけです。 この理論はやがて、近代の大哲学者、カントに渡り、 彼に大きな衝撃を与えることになります。
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