あなたも社楽人!

社楽の会の運営者によるブログです。社会科に関する情報などを発信します。

【荘子】中国思想解説#14【道家】【胡蝶の夢】

2021-08-28 06:10:48 | 哲学の窓

哲学チャンネルより 【荘子】中国思想解説#14【道家】【胡蝶の夢】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=1juy31M0Shc

※関連した過去動画 【老子】中国思想解説#13【道家】【無為自然】 https://youtu.be/fLD-JflWIIc
※書籍 荘子 第一冊 内篇 https://amzn.to/3ouKNqk
 
動画の書き起こし版です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
荘子(荘周)は、生涯だれにも仕えずにその人生を終えたといいます。 その生き方は『尾を泥中に曳く』という古事成語に表されています。 当時弱小国であった宋の国で暮らしていた荘子の噂を聞きつけた楚の威王が ぜひ荘子を国に迎え入れたいと大きな報酬を持って役人を向かわせました。 しかし、荘子はこれを断ります。彼曰く 「楚の国には占いのために3000年もの間大切に保管されている亀の甲羅があるそうですね。」 「本来、その亀は泥の中で尾を引きずりながら生きていたかったはずです」 士官して自由を束縛されるよりも、 貧しくとも気ままに暮らす方が良い。 無為自然を体現したような言葉です。 荘子(荘周)が残した言葉と、その弟子の言葉をまとめたものが『荘子』33篇です。 老荘思想と言われるぐらいですから、 老子と荘子の思想には類似点が多く見られます。 一方で、老子が道を『言語化不能なもの』として過度な説明をしなかったのに対し 荘子は多彩な例え話を用いて、道の理解を促します。 『老子道徳経』がわずか5千字程度なのに対して 『荘子』が6万文字を超えることからもその違いが伺えます。 また、老子は【小国寡民】として国のあり方についても言及しましたが 荘子は徹底して個人の精神の自由について語ります。 荘子によると【道】とは『善悪・美醜・優劣などの人為的な区別がない場所』だとされます。 これを【万物斉同】と表現します。 本来万物は区別のない1つのものであらゆる区別は人間が作り出したものである。 そのような人が作り出した区別に左右されることなく、 自由気ままに生きるのが良いよね。と言う考え方ですね。 【天倪】という言葉も用いています。 宇宙の高さから我々の世界を見たら、議論される善とか悪なんてちっぽけなもので そこに差異なんてないことがわかる。 荘子は、このようにして無為自然を様々な角度から解釈します。 彼の卓越した例え話の中でも一番有名なのが【胡蝶の夢】でしょう。 ある日、男が蝶になってひらひらと楽しく飛び回っていた。 ふと目が覚めると男は男であり、蝶などではなかった。 私たちも同じような経験をしたことがあるはずです。 このとき、蝶であった自分が夢なのか、男である自分が夢なのか、 判断することはできるでしょうか? 普通に考えると 「いやいや、感覚的にそれはわかるでしょう」 と蝶の世界を夢と断定しそうなものですが、 荘子は『どちらが夢か証明する根拠がない』と考えます。 確かに言われてみるとそんな気もしてきます。 我々が現実世界だと思っている『今』が夢でないとは 証明することができないことも理論的に正しいです。 そういえば、デカルトなどはここについて徹底的に考えました。 全てを疑う過程で、目の前にあるもの、正しいと思われている理論。 それら全てが『夢』である可能性を否定できなかったのです。 そして彼は最終的に『我思うゆえに我あり(Cogito ergo sum)』に辿り着きます。 しかし、荘子はこれについてそこまで突き詰めません。 ここに西洋哲学と東洋思想の大きな違いが見られます。 彼は「どちらが夢か分からないなら、じゃあどっちでも良いよね」と結論を放棄します。 その上で「どっちでも良いなら、自分が何者であるかは関係ない。そんなことを気にせず今を楽めばそれでよし」 と結論を保留したまま結論を出します。 この思考のプロセスに【道】の片鱗が隠されているのです。 荘子は真の自由を手に入れるためには【真人】になる必要があるといいます。 真人とは【道】と一体化した人間のことです。 まず【心斎坐忘】という修養法にて心を空っぽにし全てを忘れ去ります。 全てを忘れ去った状態を、全く波(区別)がない水の状態に例えて【明鏡止水】と表現します。 明鏡止水の境地では、人間が人為的に作った様々な区別から解放されています。 つまり、この状態こそ道と一体化しているその瞬間であり、 そこに至った人間を【真人】と呼ぶのです。 こう考えると【道】とは仏教における【空】であり【縁起】でもあると考えられますし 道と一体化することは悟りであると言えますし それを生きているうちに達成する可能性は、空海の説いた【即身成仏】とも非常に似通っています。 荘子が目指したのは精神の自由でした。 『荘子』が逍遙遊篇から始まることからもわかるとおり、 『遊ぶように生きる』ことを標榜していたのは間違いありません。 しかしそれは、外的世界を遊ぶように生きるという意味ではなく、 道を自得し、現実世界の幸不幸から逃れることで 内的な精神世界において遊ぶように生きることを目指したものでした。 老子と荘子の思想は、老荘思想として後世に語り継がれ、 その思想を吸収し変化させる形で道教が生まれます。 そして、12世紀ごろになると朱熹によって儒教が再解釈され、 道教を吸収することで朱子学が生まれるのです。 朱子学は江戸幕府に大きな影響を与えます。 我々の生活を形作る思想の片鱗には 間違いなく老荘思想が眠っていると言えるでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
このブログでの哲学関連サイトは・・・
 
 

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。