「社会科こぼれ話」が、過去に史実とされていたものを否定する方向へ傾いていますが、それならもう一つ。
「板垣死すとも自由は死なず」といったのは誰でしょう?
もちろん板垣退助?
板垣退助は自由民権運動の主導者として知られ、私が小さい頃には100円札の肖像でした。
自由党を設立した翌年(明治15年)、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷しました。
その際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われています。
しかし、実際は、事件の直後、小室信介というジャーナリストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものといわれています。
ただ、これにも異説があり、当時板垣の秘書であった内藤魯一という人物が事件現場で叫んだとも言われています。
実際に負傷直後に板垣が言った言葉は、「痛い。医者を呼んでくれ」だったと言われていますし、これが普通でしょう。
なお、このとき板垣を診察した医師は、のちの政治家後藤新平でした。
板垣は後藤を「彼を政治家にできないのが残念だ」と、語ったといいますが、その後、後藤新平は、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任しています。
運命の出会いだったのでしょう。
「板垣死すとも自由は死なず」といったのは誰でしょう?
もちろん板垣退助?
板垣退助は自由民権運動の主導者として知られ、私が小さい頃には100円札の肖像でした。
自由党を設立した翌年(明治15年)、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷しました。
その際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われています。
しかし、実際は、事件の直後、小室信介というジャーナリストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものといわれています。
ただ、これにも異説があり、当時板垣の秘書であった内藤魯一という人物が事件現場で叫んだとも言われています。
実際に負傷直後に板垣が言った言葉は、「痛い。医者を呼んでくれ」だったと言われていますし、これが普通でしょう。
なお、このとき板垣を診察した医師は、のちの政治家後藤新平でした。
板垣は後藤を「彼を政治家にできないのが残念だ」と、語ったといいますが、その後、後藤新平は、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任しています。
運命の出会いだったのでしょう。