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京都ぶらり -5-

2011-02-13 06:42:18 | 取材・旅行
京都ぶらりの第5弾、最終回です。

2日目、12日の様子を紹介します。

朝食後、歩いて(走って?)護国神社方面へ向かいました。

東大路通りから護国神社へ向かう参道の途中で目についたのは、翠紅館跡です。



翠紅館は、幕末の時代に、勤王の志士達が頻繁に集会をおこなったところです。

特に、1863年に開かれた幕府に反対する勢力の各藩志士の代表による会議は、
攘夷の具体策が検討されました。

翠紅館会議といわれています。 

土佐藩の武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まったそうです。 
その後にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった会議がもたれました。 

しかし、薩摩藩・会津藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする
尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件が8月18日の政変です。

翠紅館は、現在「京大和」という料亭になっています。


というわけで、「京大和」の前の道は、「維新の道」といわれています。



この碑文は、松下幸之助によるものです。

その坂を上りきったところにある、維新の志士たちを祀った京都護国神社は8時までは開きません。

まだ30分あるので、清水寺へ向かいました。

修学旅行の定番ですが、まだ朝には人影がまばらです。



朝6時から開いているのがすごい!



再び、産寧坂を戻り、護国神社へ戻ります。



護国神社は、正式には、京都霊山護国神社

靖国神社より古い歴史を持つ招魂社です。



坂本龍馬のほかに、木戸孝允、中岡慎太郎、吉村寅太郎、久坂玄瑞、高杉晋作ら幕末勤王の志士1,356柱が祀られています。



坂本龍馬(左)と中岡慎太郎の墓です。



明治維新に大きな働きをした土佐の二人の英傑は、
1867年11月15日(旧暦)に近江屋において襲われ、
亡くなりました。
現在でも、11月15日(新暦)に墓前祭が開かれます。


墓の前は小振りな二人の銅像が建っています。



両者の身長差があり過ぎて、中岡慎太郎が座っているとか・・・。

後ろを振り返ると、京都の街がよく見える絶好のビューポイントです。



最も高い場所にあり、石碑も立派なのが「維新の三傑」の一人、木戸孝允の墓です。
妻の松子の墓も一緒に並んであります。



木戸孝允は、実質的に明治維新の頭脳です。
今につながる、当時としては斬新な政策は、大半は木戸孝允のアイデアでした。

版籍奉還・廃藩置県、憲法制定と三権分立、二院制の確立、四民平等、教育制度、マスコミの発達、封建的風習の廃止、人材優先主義、法治主義、軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、民主的裁判制度など、現代的な政策を次々に提案し、実現させています。


大村益次郎の墓です。山口にも大村益次郎の墓がありましたので、慰霊碑というべきかもしれません。



彼は、21歳の時に、大坂の緒方洪庵の門を叩き、そこで、医学にとどまらず、後年の「徴兵制度」の基礎であった「農兵論」をはじめ、兵学、築城学、砲術と、多彩なヨーロッパの兵制を学びました。

一度は山口に帰り町医者をしていましたが、伊予宇和島藩に出仕しました。ここで人生が180度変わります。
そこで、(ほぼ)日本初の蒸気船(黒船)を造り、さらに、西洋兵書の翻訳に励み、兵学者としの地位を確立していきます。

その後の江戸に出てからの活躍はここでは書ききれません。
日本陸軍の創始者であり、靖国神社をつくったのも益次郎です。

しかし、彼が導入しようとした廃刀令徴兵制度に不満を持つ不平士族に斬られ、その傷がもとで四十六歳で亡くなりました。
最期を看取ったのは、シーボルトの娘、楠本イネです。


これは、吉村寅太郎ほか天誅組の墓所です。



吉村 寅太郎は、幕末の土佐藩出身の志士です。

武市半平太の教えを受けて土佐勤王党に加わり、尊皇攘夷運動に加わりました。

寺田屋事件で捕らわれ土佐に送還されますが、再び京都へ上り天誅組を組織して大和国で挙兵しますが、先にふれた8月18日の政変で敗れ戦死しました。

そのメンバー一同の墓所です。

そのほか、このように並んでいます。



維新の志士のほか、明治以降の日清・日露、太平洋戦争などの戦死者を合わた約73、000柱が祭神として祀られています。



パール博士顕彰碑がありました。



パール博士とは、戦後、市ヶ谷で開かれた極東軍事裁判で、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を唱えたインド代表判事のことです。



壁面には次のように書かれています。


時が熱狂と偏見をやわらげた暁にはまた理性が虚偽から

その假面をはぎとった暁にはその時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら

過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう

パール判事判決文より


東京裁判とは何だったのか、パール判事の意志は…、

日本人として、誰もが考えてほしいと思います。



その後、「井筒八ッ橋」追分店へよりました。



ここは、「にほん算盤」「大津絵」「走り井餅」発祥の地だそうです。

しかも、「夕子」の生産ラインが見学できます。



シンプルな工程ですが、人間と機械の技を見せてもらいました。





機械の方がいいもの、人しかできないもの…、うまく住み分けていると感じました。


短い時間でしたが、収穫の多い「京都ぶらり」旅でした。

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