江南市縁の七人の戦国武将 -生駒 親正
こうなん藤まつり会場では、毎年恒例の江南市縁の七人の戦国武将展が開かれています。
その七人の武将を順に紹介します。
記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。
第5回は生駒 親正です。
この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。
1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。
その七人の武将を順に紹介します。
記載事項には諸説あるものも含まれていますのでご了承ください。
第5回は生駒 親正です。
この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。
1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。
その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます
60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。
そして、三中老のひとりなります。
三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。
生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。
ただ、3名が揃って活動した形跡は見あたりません。
ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。
五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。
どちらに付けばよいか苦悩します。
讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。
結果はもちろん東軍の勝利。
生駒家は安堵されます。
高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。
ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます
60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。
そして、三中老のひとりなります。
三中老(小年寄)とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。
生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。
ただ、3名が揃って活動した形跡は見あたりません。
ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。
五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。
どちらに付けばよいか苦悩します。
讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。
結果はもちろん東軍の勝利。
生駒家は安堵されます。
高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。
ちなみに、信長の室となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。
p34~35には次の記事があります。
信長の経済力を支えたのは、「津島湊」と「生駒氏」でした。
左下には、親正が紹介されています。