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【シェリング】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【同一哲学】【絶対者】/哲学チャンネル

2021-06-23 06:10:53 | 哲学の窓

哲学チャンネルより 【シェリング】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【同一哲学】【絶対者】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=NZgpCvAEuyc

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【関連した過去動画】
【フィヒテ】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【知識学】【自我】 https://youtu.be/deXqedw1UUo
【カント①】西洋哲学史解説【純粋理性批判】
【認識論のコペルニクス的転回】 https://youtu.be/VjxGKSoU2qA
【書籍】 人間的自由の本質 (岩波文庫) https://amzn.to/38uGEMa
 
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動画の書き起こし版です。
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シェリングは1775年にドイツのレオンベルグに生まれました。 父はルター派の神学者兼教育者であり、その英才教育を受けた彼は、 10代の頃に4カ国語をマスターするなど、天才ぶりを発揮していました。 15歳になると、本来20歳から入学が可能なテュービンゲン神学校に 特例として入学が許され、学寮では5年先輩のヘーゲルと同室になったとされています。 彼らはカントの哲学に夢中になり、特にフィヒテの自我に関する思想に のめり込んだと言われています。 フィヒテがそれまでの思想を発表した『全知識学の基礎』を出版した翌年に シェリングが『哲学の原理としての自我について』を著したところ、 フィヒテから 「私の考えを適切に理解している」 と評価されたほど、フィヒテの哲学を我ものにしていました。 しかしその後、シェリングはフィヒテの哲学を批判します。 フィヒテはカントの認識できるものとモノ自体を分ける考え方に不満を覚え、 自我という一元的なものでその両者を統一しようと試みました。 つまり、この世の中の根元は自我であり、 自我によってこの世界は作られている。 このようにしてモノ自体すらも自我の中に内包したのです。 しかし、この世界が自我のみで作られているのならば、 世界は全て自分の思い通りにうまくいくはずです。 でも実際はいろいろな障害があり、そうなっていない。 フィヒテはこの障害に対して非我という概念を提唱し、 自我はその非我を乗り越えることで【絶対我】へと向かおうとすると考えました。 シェリングはこの【絶対我】について疑問を持ちます。 フィヒテの哲学では、絶対我は自我の延長線上にあるもので 語弊を恐れずにいうならば、自我の枠組みに内包されている存在でした。 しかし、絶対的な自我と呼ぶ以上、その存在は絶対でなくてはいけません。 絶対ならば、非我に邪魔をされるなんてことがあって良いはずがないのです。 このことから、シェリングは絶対的な自我はもはや【絶対者】であろう。 と考えるんですね。 そして、絶対者であるならば、それは自我の根拠(自我の定立の根拠) であるだけでなく、非我の根拠にもなるべきであろうと。 つまり、自我である【精神】と非我とされる【自然】は両方とも 絶対者から展開されたものであるべきだと考えたのです。 このように精神と自然が同じ1つの絶対者から生まれたとする考え方を 【同一哲学】と呼びます。 何言っているかわからないですよね(笑 ここは正直、わからなくても大丈夫なんですけど 極論を言えば、シンジくんが非我を克服して絶対的な存在になろうとしている場合、 シンジくんの中には絶対的な存在が元から内包されていることになり、 だったらそもそも非我に邪魔されるのはおかしいわけです。 だから本当は、絶対者からシンジくんも世界も生み出されていた。 と発想の転換をしたと思ってください。 そう考えると、今度は一つ疑問が生まれます。 同じ絶対者から精神と自然という全く別のものが生まれるのはなぜか? シェリングはこれについては『量の問題である』と考えました。 同じ絶対者から流れ出たものに質的な違いがあるとは思えないため、 違いがあるとしたら量なんだろう。というロジックです。 つまり【精神の要素】【自然の要素】を絶対者は元から持っており、 その流れでる割合によって精神となるか、自然となって表れるかが 変化すると考えたわけです。 我々の精神の中には自然の要素があるけれども、 精神の要素の方が多いから精神として表れている。 自然の中にも精神の要素が含まれているけれども、 自然の要素の方が多いから自然として表れている。 つまり、精神性の低い状態では自然として表れがあり 精神性が高くなると、精神として現れると考えたんですね。 シェリングが生きた19世紀前半は自然科学が大発達した時代でした。 例えば原子の化合と分解によって燃焼という現象が現れますが これを観念的に捉えると無機物ではなく、有機物のようにも見えますよね。 このような背景も、自然側に精神の要素が含まれている。 という哲学につながっているのだと推察します。 さらにシェリングは精神同士にも精神性の多寡があると考えました。 精神性の高い精神と低い精神があるとしたわけです。 そしてそれらを必然的なものを追い求める【理論哲学】 自由を実践する【実践哲学】 自分以上のものを表現しようとする【芸術哲学】の 3つの区分に分類しました。 理論哲学と実践哲学はそのままカントの2つの理性と同義ですね。 その中でもシェリングは、芸術哲学こそが最高の精神性を持っていると考えました。 芸術は絶対者そのものを直感して、それを表現することだと考えていたからです。 この考え方、個人的には好きです。 非常に難解な思想ではあるのですけども、 なんとなく、ちょっとしっくりこない感じがしませんか? でも何がしっくりこないかはわからない。 安心してください。 この後、ヘーゲルがその違和感の正体を明らかにして より洗練された思想へと昇華してくれます。 ドイツ観念論の完成までもう少しです。
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