日本史と城【山中城】は何故短時間で落城したのか?北条の箱根要塞を豊臣が容赦なく力攻め!
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動画で紹介している戦いの様子は、資料を基にした個人の見解です。史実と異なることがありますので、ご承知ください。
山中城は豊臣秀吉による小田原征伐のとき、わずか半日で落城してしまったという少し不名誉な歴史も持ちます。もし山中城がもう少し持ちこたえ、小田原からやってきた北条の援軍と豊臣軍による決戦がこの城で行われていたら、違う評価をされていたのかもしれません。実際に城跡を見学したところ、山中城の守りはもろく弱いものではなく、むしろ他の城よりワンランク上、北条家の築城技術を集めた名城であることがわかります。こんな素晴らしい防御施設を持つ城がどうして短時間で落城してしまったのか。今回は山中城のつくりを紹介するとともにその戦いについて考えてみます。 山中城での戦いについて、槍の名手渡辺勘兵衛による記録が残っています。勘兵衛は豊臣軍中村一氏の配下として、この城に一番に攻め込んだと言われています。勘兵衛はなかなか癖のある人物で、多くの大名に仕えますが度々トラブルを起こし、晩年は浪人し風呂屋の名物主人となったようです。その勘兵衛の話を参考に、山中城での戦いをみてみます。 豊臣軍は山中城に対して徹底的な力攻めを行ったようです。この戦いで北条軍は多くの兵を失いますが、豊臣軍も武将が戦死するなど少なくない損害を被ります。わずか半日で落城したとはいえ、北条軍はこの兵力差でよく戦ったとも言えそうです。 小田原城を包囲した後、秀吉は関東各地に展開する北条家の城に対しては力攻めをせず、包囲に切り替える命令を出したといわれています。この大きな戦いで兵と兵がぶつかりあう戦いが行われたのは、山中城を除いて八王子城、忍城などわずか。戦いのはじめの圧倒的な勝利によって力を示しその後の展開を有利に進める。秀吉はそう考えて、山中城で徹底的な力攻めを行ったのでしょうか。