このブログでは、東日本大震災の2日後から、世界の新聞社・通信社がこの震災をどう報道したかを毎日切り取ってきました。
あれから10年になるあたり、当時の記事を再掲して当時の様子を振りかえっています。
今回は、2011年4月8日付けの記事 その2です。
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【米国】
ウォール・ストリート。ジャーナルhttp://jp.wsj.com/
7日夜の宮城県沖での地震、原発に異常なし-津波警報は解除
【ASIA TODAY】日本の震災は先進国型、スマトラ沖地震との比較
被災地の学校、再開に多くの難題
岩手県陸前高田市の小学5年生、キンノ・リョウダイ君が通う米崎小学校は、体育館は避難者であふれ、駐車場は救援隊の自動車でいっぱいだ。だが、関係当局は、子どもたちが震災のトラウマ(心的外傷)を克服できるよう、3月11日以降閉鎖していた米崎小学校をはじめとする被災地の学校を再開する決意でいる。
リョウダイ君は、まだ余震におびえており、理由は分からないが、足の震えが止まらないことがあると話す。リョウダイ君は津波に襲われた日、避難した高台から自宅が津波に押し流されるのを見ていた。両親から近所の住人48人のうち20人が津波で流されたと聞いてショックを受けた、とリョウダイ君は話す。
リョウダイ君は今は祖父母の家に寝泊まりし、食事は町の反対側に住む別の親戚の家まで行って取っている。昼間は友だちとボールを蹴って遊んでいるが、かつてサッカーをしていた場所は今はがれきに埋もれている。甚大な被害を免れた米崎小学校には、リョウダイ君の多くの友人を含め157人が避難している。
日本の関係当局は、リョウダイ君をはじめとする震災で自宅や家族、友人、学校、先生、クラスメートを失った子どもたちを慣れ親しんだ学校生活に戻すことが必要不可欠の心理療法と考えている。
今年、陸前高田市の小学校に進学するスズキ・タツキ君の母、キクミさん(37)は、1日も早く学校を再開してもらうことが、子どもが日常を取り戻す第一歩になると話す。キクミさんは、タツキ君は自宅もおもちゃもすべて失ってしまい、友だちと遊ぶ機会もめったにないと言う。キクミさんたちは現在は同じ市内に住む親戚の家で暮らしている。
文部科学省によると、岩手県、宮城県、福島県の公私立学校の死亡した生徒と教員の人数は4月7日午前7時現在で443人に上る。また、これら地域では公私立学校の約3分の2が被災した。一方、震災を免れた学校は今、自宅を失った数千人の被災者の避難場所となっている。
陸前高田市教育委員会学校教育課の菅野義則主任指導主事は、一日も早く子どもたちを安定した生活に戻し、いつもどおりの生活リズムを取り戻させることがとても重要だと話す。陸前高田市では1000人以上の住民が死亡し、約1200人が依然行方不明のままだ。
陸前高田市のすべての学校が通常より約2週間遅れの4月20日に再開する予定だ。だが、それにはさまざまな問題がある。子どもたち全員をどの学校に通わせるかといった、ごく基本的な問題さえまだ解決していない。
陸前高田市にある全18校の小中学校のうち7校は20日に再開できないため、それら学校の生徒は残りの学校に編入することになる。陸前高田市では、編入生をすべて学年ごとに1つの大きなクラスにまとめ、補助教員をもう一人付ける案を含め、さまざまな編入方法を検討中だ。
4月は新学期がスタートする時期だ。写真は、新学期初日の後に自分のかばんを捜す男子生徒(宮城県の大川小学校近くで)
津波でやはり壊滅的な被害を受けた岩手県大槌町では、近隣の学校に編入する生徒が、がれきが散乱する危険な道を歩いて通わずに済むようバスで学校まで送り迎えすることを検討している。
福島第1原子力発電所が位置する福島県双葉町では、大多数の住民が埼玉県に避難している。双葉町にはいつ戻れるのか、あるいは再び戻れるのかさえ現時点では不明なため、避難した子どもたちは避難先の地元の学校に編入せざるを得ない。
陸前高田市では、10ある保育園のうち3園が被災した。震災を免れた米崎保育園の長野定子園長(55)は、過去3週間を新学期の入園準備に費やした。
保育者としてやるべきことは、1日でも早く保育園を再開し、子どもたちが子どもに戻れるようにすることだ、と陸前高田市で生まれ育った長野園長は話す。
長野園長は徒歩や自転車で町中を周り、保育園に登録している115人の子どもたちの安否確認を行っている。子どもたちの多くは依然避難所に寝泊まりしているか、両親と一緒に別の町に住む親戚の家に身を寄せている。
長野園長は、見回りをしていると子どもたちにストレスの兆候が見て取れると話す。実際の年齢よりも子どもっぽい振る舞いをしたり、母親に抱きついて離れたがらない子どもがいるという。また、毎日余震が発生するたびに神経過敏になったり、怖がったりする子もいる。
米崎保育園では、津波に見舞われる前に既存の建物の隣に新しい保育園を建設していた。だが、新しい建物は安全性検査が遅れているため、まだ使用できない。また、たとえ安全性検査を終えたとしても、再開にはまた別の問題が存在する。
既存の保育園は現在、陸前高田市の避難所の1つの調理場として使用されている。また、新旧いずれの建物も水道が通っていないため、赤ちゃんの世話をするのはほぼ不可能な状態だ。また、子どもたち全員に適切なランチを食べさせられるだけの十分な食料も確保できていない。
地震に見舞われたとき、米崎保育園には両親の迎えを待つ子どもたち50人がまだ残っていた。長野園長は当時を思い出し、海の方を見ると、「白い煙」のようなものが見えたと話す。それは急速に押し寄せて来る津波だった。危険を察知し、長野園長と他の18人の保育士は子どもたちを高台に避難させた。赤ちゃんは保育士が両脇に抱え、よちよち歩きの子どもたちは大きな洗濯カゴに入れ、それを押して坂道を上ったという。保育士と子どもたちや親の一部は、高台にあるコミュニティーセンター近くの小屋で一夜を明かした。
また、米崎保育園であずかっていた子どもの一人、2歳の女の子は震災当日、祖母が車で迎えに来たが、帰る途中に津波に襲われ車に閉じ込められたまま死亡してしまった。
保育園再開にあたって、長野園長は子どもたちの親に水を持参してもらうことや、子どもたちを午前中だけあずかることを検討しているという。
だが、5年生のリョウダイ君にとっては、20日の学校再開は早過ぎるようだ。リョウダイ君は勉強は好きではないし、避難者がまだ体育館にいることから、一番好きな科目の体育もできそうにないと話す。
米ペンシルベニア州原発、全電源失えば炉心損壊の可能性=NRC分析
福島漁連、低濃度汚染水放出で東京電力に抗議
建設会社ベテラン技師が道開く、全員50代─福島原発
準大手ゼネコンのハザマは福島第1原発の危機対応で協力を要請されたことを受け、ベテラン土木技師から成るチームを発足させた。チームに選ばれたのは7人。非常に経験が豊富で全員が50代。
チームのリーダーは東京の本社で行われたインタビューで「若手は行かないような方向だった」と語った。このリーダーによると、現場にいる技師や作業員は緊急時対策室の担当者との連絡手段がなく、その指示をいちいち仰ぐことが出来ないことが判明した。それで「現場に出たら判断できる」技師が選ばれたという。
また、チームの別のベテラン技師は、事故の重大さから「原子力のベテランは、これはもう最初から行かなければならない、と思っていた。選んだ人間もだいぶ苦労したみたいです」とその時の状況を説明した。ハザマが派遣を決めた7人のうち、3人はそれまで原発事故での作業を経験したことがなかった。
今回の危機発生から4日目の3月15日。その日から始まったハザマ・チームの作業は原発敷地内の道路の整備だった。津波と爆発により敷地内にはがれきが散乱していたため、自衛隊、東京消防庁、警視庁機動隊からの緊急部隊の作業が難航。ハザマのチームが道路のがれき除去と修復を行えば、重機や車両を使った緊急部隊の作業が進捗するということだった。
ハザマのチームが行った作業の歩みは次の通り:
3月15日:ハザマがチームの編成に着手する。仙台のハザマ東北支店は原発事故での現場経験のあるチーム・リーダーを含む4人の派遣を決定。また東京本社からは3人とショベルカー2台が派遣される。さらにハザマの子会社がショベルカーとトレーラーのオペレーター7人を送り込んだ。これらオペレーターは原発事故での作業経験がない。チームは同日午後10時30分ごろ、福島第一原発から約20キロ離れた中継基地に到着した。
3月16日:中継基地から福島第1原発に向かう道路がひどく損傷していたため、同チームは午前零時過ぎ、まず小規模の調査隊を派遣。その後の午前3時ごろ、チームが福島第1原発に向けて出発する。主に国道6号線を使ったが、一部で迂回しなければならない区間もあった。チームは午前4時過ぎ、同原発に到着したが、放射線量のレベルが高かったこともあり、待機を余儀なくされた。3月16日は結局、終日待機状態となった。チームが待機していたのは原子炉近くの建物内にある緊急時対策室。同建物内には東電の事故対策チームやその他関係者が駐在していた。建物内にいる300人から400人の作業員は全て防護服を着用し、廊下で睡眠を取っている者もいた。
3月17日:技師と運転手は午前2時30分ごろ、現場に向かい、原子炉5号機および6号機周辺の道路のがれき除去と修復作業を一時間行う。しかしその後は、自衛隊ヘリコプターによる燃料プールへの放水作業が行われるため、一旦、緊急時対策室のある建物に戻る。午前10時ごろ、原子炉5号機および6号機周辺での作業を再開。さらに、夜間には原子炉1号機周辺の道路で作業を行った。
3月18日:当日朝、再び原子炉5号機および6号機周辺で、連絡道路のがれき除去と修復の作業を行う。そして午前8時ごろ、ハザマ・チームの第2陣が現地に到着。第1陣は正午ごろ、東京に向けて帰路につく。
ハザマの責任者らは装備のオペレーターに対し、安全第一であることを確約して作業に当たってもらった。ハザマは東電に対し、同社のチームが作業に向かう時は毎回、土木技師と放射線量を測定する専門員を派遣するよう要請したという。責任者らは「うちとしては職員および作業員の安全が第一です。もし何かあった時には、すぐに逃げるような形も理解してください」と東電側に伝えたという。
ハザマ・チーム第1陣のリーダーの1人は、原発事故の現場を初めて経験するメンバーは最初、少し不安そうだったと語った上で、「東電さんの職員の方々は一生懸命。特に地元出身の方が多く、我々の故郷が無くなることはなんとしても避けたい、と。自分たちが生まれ育った土地を守りたいと、本当に一生懸命やっておられました。最後は我々も意気を感じて、『また来るから』と言って(東電の職員と)握手して分かれた」と当時の様子を振り返った。
ハザマのチームは3月18日の昼下がり、東京に戻ってきた。チームのメンバーはまず、新しい下着と服を買い、東京駅近くの銭湯に向かった。なにしろ4日間1度も風呂に入る機会がなかったからだ。そして一風呂浴びてからは、ビールで乾杯をした。「皆で涙流しながらよかったなぁ」と。
福島原発1号機の原子炉格納容器に窒素注入開始
【英国】
ロイター http://jp.reuters.com/
福島第1原発に一部安定化の兆候、依然非常に深刻=IAEA高官
国際原子力機関(IAEA)は7日、東日本大震災の被害を受けた福島第1原子力発電所について、全般的な状況は依然非常に深刻なものの、安定化に向けた動きを示す一定の兆候がみられる、との認識を示した。
IAEAのデニス・フローリー事務次長は会見で「福島第1原発は、依然非常に深刻な状態にあるとわれわれは捉えている。ただ、電力や設備など一部機能の回復を示す初期段階の兆しがみられる」と語った。
民主が1次補正4兆円提案、政調会長「国債発行回避」明言せず
【スイス】
スイス・インフォhttp://www.swissinfo.ch/jpn/index.html
東北3県、仮設着工4千戸余り
東日本大震災の津波で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島3県が整備を目指す仮設住宅計6万2千戸のうち、着工したのは1割に満たない4337戸にとどまっていることが7日、各県への取材で分かった。沿岸部の自治体を中心に高台などでの用地確保に手間取り、急激な需要増などによる資材不足が追い打ちをかけた。震災から1カ月を目前に控え、被災者対策の柱となる住宅確保の遅れが浮き彫りとなった格好。不自由な避難所で暮らす住民の疲れはピークに達しており、国の一層の側面支援が急務となる。仮設住宅の目標戸数は避難者数が最多の宮城県が3万戸、岩手県が1万8千戸、福島県が1万4千戸。これに対し、7日現在の着工戸数は宮城県1632戸、岩手県1549戸、福島県1156戸にとどまっている。3県では建設用地の選定も遅れ、福島県は約9割、岩手県も7割近くをようやく確保。宮城県は調査中としているが、南三陸町は土地確保が難航し、隣接する内陸部の登米市から土地の提供を受けることになった。
【フィリピン】
日刊マニラ新聞
http://www.manila-shimbun.com/index.html
首都圏マニラ市の女性ロータリークラブが東日本大震災の義援金集めで写真展を開催