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【ヘーゲル①】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【絶対精神】【歴史】/哲学チャンネル

2021-06-24 06:10:53 | 哲学の窓

哲学チャンネルより 【ヘーゲル①】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【絶対精神】【歴史】を紹介します。

ここから https://www.youtube.com/watch?v=ARc4PgSlX7Q

とっつきづらい哲学や心理学の内容を、出来るだけわかりやすく完結に お伝えすることを目的としたチャンネルです。 
 
【関連した過去動画】
【ヘーゲル②】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【弁証法】【人倫】 https://youtu.be/7XBvwDMZV4A
【水槽の脳】から見るデカルト・カントの思想 https://youtu.be/xoRmBFt9JOg
【フィヒテ】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【知識学】【自我】 https://youtu.be/deXqedw1UUo
【シェリング】西洋哲学史解説(ドイツ観念論)【同一哲学】【絶対者】 https://youtu.be/NZgpCvAEuyc
【スピノザ】西洋哲学史解説【汎神論】【エチカ】 https://youtu.be/SeEO0yYvOaU
【書籍】 ヘーゲル「精神現象学」入門 (講談社学術文庫) https://amzn.to/2DdR5Iw 
 
動画の書き起こし版です。
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ヘーゲルは1770年、神聖ローマ帝国統治下の小さな国家、 現在のドイツ南部にあたるヴェルテンヘルクに生まれました。 1788年にはテュービンゲン神学校に入学し、 そこでシェリングと出会い、友となります。 1789年にはフランス革命が起こり、 神学を学んでいたヘーゲルはシェリングなどともに喜びあったと言われています。 その後は家庭教師をしながら主に政治学について学び、 イエナ大学の講師になると、シェリングと共同でカントとフィヒテを 批判する論文などを執筆したりします。 しかし、その後はシェリングに対して批判的な意見を持つようになり、 友好関係まで断絶してしまいます。 1807年には【精神現象学】を刊行し、シェリングを激しく批判します。 やがて戦争で大学が閉鎖になると、新聞の編集者や中学校の校長など、 職を転々としながら執筆活動を続けます。 1818年、フィヒテを次いでベルリン大学の哲学教授になり、 1831年にコレラで急死するまで、その職を全うしました。 ヘーゲルが行ったことを端的に表すならば、 カントを批判したフィヒテとシェリングの哲学を 批判的に統合し、ドイツ観念論を完成させたことにあります。 簡単におさらいをしておくと、 まずカントは現象とモノ自体を完全に分類して、 現象については理論理性で把握することができるが モノ自体については人間に把握することができないのだから その領域は実践理性で対応する必要があると言いました。 それに対してフィヒテは、理性が二つに分かれるのはおかしいと考え、 自我を根元に据えた一元論を唱えることで 自我の中に理論理性と実践理性を包括し、 どちらも一元的に扱えるようにしました。 自我が世界を作っているのだからモノ自体に到達できると考えたのです。 シェリングのカントに対する批判もフィヒテと同じ内容でした。 しかし、シェリングは自我が世界を作っているという考え方には反対し、 絶対者が自我である精神も、それ以外の自然も作っていると考え、 つまり現象もモノ自体も根元的には同じものであると言ったのです。 ヘーゲルはシェリングの定義した『絶対者』について疑問を抱きます。 絶対者は非我によって影響されない、絶対かつ無限的なものと定義されていましたが 一方で絶対者から生み出される精神などは絶対者と質的には変わらないとされていました。 そうすると、無限者と生み出された有限者は質的に同じものになるはずですが、 シェリングは明らかに無限者と有限者を対立した存在だと定義していたのです。 もっと言えば、無限者は非我に影響されないはずなのに、 対立した、言い換えると自己以外のものが存在するのは致命的な矛盾なのです。 このように無限者が自己に対して、他者を自己の外部に持つことを ヘーゲルは【悪無限】と呼びました。 絶対者の定義はそうじゃないだろうと。 そして、全てを自己のうちに含み込み、 他者のもとにあって自己である無限を【真無限】と呼び、 有限者は無限者の中に組み込まれる。と考えたのです。 何言っているかわからないですよね。 極論ですけど、フィヒテはこう。 シェリングはこう。 ヘーゲルはこう考えたということです。 この文脈がわからない方は概要欄の 過去動画をご覧いただけますと幸いです。 ヘーゲルはこの無限者を【絶対精神】と表現しました。 わかりやすく、絶対精神を神と置いて話を進めます。 つまりは、この世の中は神によって作られているのだけど、 その神は我々を何処かから見下ろしている存在ではなくて、 我々そのものなんだと言っているのです。 自分自身も、あなたも、スマホも、壁も、空気も。 全ては神の一部であって、その現れなのだと。 この考え方、どこかで見覚えがないですか? そうです。スピノザなんです。 スピノザが【神即自然】として表した哲学に非常に似通っているのです。 ヘーゲルは自身でもスピノザからの影響を公言しています。 話を戻します。 そして、神は神自身の同一性を保ったまま、 そこに内包される有限者が変化を繰り返していく。 この営みこそが、世界であり【歴史】である。 とヘーゲルは考えたのです。 一般的な宗教における神は【全知全能】だと表現されます。 しかし、ヘーゲル的な絶対精神は【全知】ではありますが、 【全能】ではありません。 全てを知る存在でありながら、何か自身で手を加えることはできないのです。 そのため、自身の代わりに人間に変化を実現させようとします。 そして、その変化の先に到達しようとしているのが【自由】であり【絶対的な真理】だとヘーゲルは言うのです。 人間の情熱を利用して、自由を実現させようとする 絶対精神の働きを【理性の狡知】といいます。 つまり我々が生きているこの【歴史】は 絶対精神が自由に到達するための途中過程であり、 その変化の過程の中でいずれカントのいうモノ自体にあたる 真理にも到達できるだろうと考えたのです。
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