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萩原宿・起宿-3-

2025-03-12 07:25:04 | 取材・旅行

萩原宿・起宿-3

2025年3月9日(土)、愛知ウォーキング城巡りクラブ(AWC) 一宮市の美濃路・萩原宿~起宿ウォーキング散策見学会へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、6回にわたって紹介しています。今日はその第3回。

今回訪問したところです。2枚続きです。

    

今回取り上げるところです。

美濃路は、西へ折れ日光川を渡るのですが、今回は直進しました。

すると、すぐに宝光寺があります。

この宝光寺には、濃尾地震 震災紀念碑があります。

明治24年(1891)濃尾地震の際に、当時の萩原村では60人以上の死者が出て、約8割の建物が全壊・半壊しました。

この碑は、萩原でも激震があったことを後世に伝えるために建てられたものでしょう。

実は、2019年に、新しい地図記号国土地理院から発表されました。

それがこれです。

この記号は、過去に起きた津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害の情報を伝える石碑やモニュメントを表示しています。

地図記号は、記念碑の記号に碑文を表す縦線を加えた形を表現しています。

風車、老人ホーム以来、13年ぶりの新しい地図記号となりました。

各地で起こった過去の災害について、調べてみましょう。


今回はショートカットしたために、行けなかったところを紹介します。

市川房枝生家跡

市川房江は教科書にも載っている偉人です。その生家を、令和5年3月25日(土)市川房枝生家跡記念広場として整備し、その完成披露式典が挙行されました。

https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/mayor/1000112/1053989/1057849.html

中央の説明です。

文字起こししてみましょう。


 明治26年5月15日、女性参政権運動で活躍した市川房枝は、九郎とたつの三女として、この地 (田中島郡明地村吉)に生まれました。
 高等小学校までをこの地で過ごし、 高等小学校時代の恩師岩田よねに憧れ教師の道に入りました。 教師を退職した後は、 名古屋新聞の記者として活躍しました。 房枝の教師・記者時代の数年間は、 大正デモクラシーの時期であり、様々な政治社会運動が活発でした。房枝は、多様な議論に接する中で、自身も活動の場を求め上京を決意しました。
 上京した房枝は、日本初の労働組合友愛会婦人部に入り、女性の労働問題に携わり、平塚らいてうとともに、新婦人協会を設立しました。 大正10年から3年間渡来し、普選運動の重要性を学び帰国しました。 当時、諸外国では男女とも普通選挙権が実現し、日本でも大正14年には男性への普通選挙が実現し、女性参政権実現も目前でした。 運動は、日中戦争・太平洋戦争により中断しましたが、敗戦が知らされた8月15日の直後に再開しました。その結果、昭和20年9月には女性参政権の付与が閣議決定、12月に衆議院選挙法が改正され、 女性参政権が実現しました。
 その後、参議院議員を通算5期25年務め、女性の労働環境改善、地位向上の運動進し、昭和56年2月11日、87歳の生涯を終えました。その前年の昭和55年、枝等の活動により日本は女子差別撤廃条約に署名し、昭和60年の男女雇用機会均等法の制定にもつながりました。


 個人的には、参議院議員選挙で、当時の全国区でトップ当選され、「すごい有名人なんだ」と思ったのがきっかけで、私も同じ大学へ進みました。

 そう、市川房江は私の先輩なのです。

 残りの2枚の説明は現地でご覧ください。

 

 次の説明もありました。

参議院議員選挙の当選回数

【1回目】第3回参議院議員選挙 東京地方区で2位当選
【2回目】第5回参議院議員選挙 東京地方区で2位当選
【3回目】第7回参議院議員選挙 東京地方区で4位当選
【4回目】第10回参議院議員選挙 全国区で2位当選
【5回目】第12回参議院議員選挙 全国区で1位当選

【日本のスゴい女性】市川房枝さんインタビュー 女性参政権75周年 女性の参政権獲得に尽力した故・市川房枝さん(「日本の顔」1979年9月23日放送より)

「市川房枝記念会女性と政治センター」もご覧ください。

  https://www.ichikawa-fusae.or.jp/  ← URLがそのままです!


孝子佐吾平遭難遺跡 (こうしさごへいひなんいせき)

 天保年間(1840年頃)に江戸参勤のため、明石藩主松平斉宣(まつだいら なりこと)の行列が萩原宿近くを通りかかったとき、暴れ馬を取り押さえようと行列を横切った萩原宿の馬方「佐吾平」を先駆の武士が無礼打にした。佐吾平は吉藤村に生まれ、盲目の母によく仕えていた。孝行の誉れが高かったので、村人は佐吾平の死をいたみ、この地に小祠を建て、後世に伝えた。(説明引用 https://www.138ss.com/spot/detail/49/


初期ならともかく、天保年間でもまだ無礼打ちがあったことに驚きです。

しかも、御三家・尾張藩内で!

この事件はその日のうちに、萩原宿の問屋から尾張藩へ注進されました。

もちろん尾張藩が黙っているわけではありません。

尾張藩は御三家筆頭の威信にかけて、清須本陣に泊まっていた斉宣に強く抗議しました。 

以後、明石藩が尾張藩領を通る時は、夜間に葬式の装いをしてのみ往来が許され、特に名古屋城下では堀川を舟で上り下りさせられたといいいます。

松平 斉宣(まつだいら なりこと)は11代将軍・徳川家斉の二十六男として誕生。12代将軍・徳川家慶の異母弟です。そのプライドゆえに暴君という記述もあります。

Wikipediaでは別の逸話になっています。以下引用します。


斉宣が参勤交代尾張藩領(当時の藩主は斉宣の異母兄にあたる斉荘)を通過中、3歳の幼児が行列を横切った。斉宣の家臣たちはこの幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行した。村民たちは斉宣の許へ押し寄せて助命を乞うたが許されず、この幼児は処刑された。この処置に激怒した尾張藩は、御三家筆頭の面子にかけて、今後は明石藩主の尾張領内通行を認めないと通告するに至った。このため以降明石藩は、尾張領内においては行列を立てず、藩士たちは脇差し1本のみ帯び、農民や町人に変装して通行したという。

上記は同時代の肥前平戸藩主・松浦静山が随筆『甲子夜話』で記すところによるものであるが、尾張、明石両藩、街道沿いの地域の歴史記録や公文書で、この事件に関するものは現在に至るまで発見されていない[2]。また三田村鳶魚は随筆『帝国大学赤門由来』において、幼児の父親である猟師の源内が鉄砲で斉宣を射殺したと記述しているが[3]、こちらも根拠のある話ではない。

この巷談はのちに映画『十三人の刺客』として翻案された。映画での明石藩主は「将軍家の弟の松平斉韶(斉宣の先代藩主と同名)」とされたが、後に発表された小説化作品では斉宣となっている。


 

狛犬がユニークです。

一宮市明地にある、孝子佐吾平遭難遺跡にショ・ジウ&TOSHI楓原(TMS隊)が行ってみた。2022.6.5

明日第4回に続きます。

萩原宿・起宿-1- -2- -3-


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