昨晩の「決着歴史ミステリー」を見ましたか?
吉乃が荼毘にふされた田代墓地では、観音像が小牧城に向かって建っています。
さて、関ヶ原の戦いでなぜ徳川の時代になったのか?の続きです。
③ 文人 対 武人
前回は、家督争いが分裂を招いたという話でしたが、それ以前に基本的な対立がありました。
武士の政権は、戦いだけが仕事ではありません。財政管理、食糧の備蓄、武具の調達、調停などの政務もあり、そのための官僚もいるわけです。それが奉行であり、豊臣家の五奉行筆頭が石田三成だったわけです。
いわゆる武人にとっては、これら文人はおもしろくありません。命を賭けて戦った代償を、これら文人が秀吉に伝え評価されるのです。文人は命の危険がありません。
仕事とはいえ、人の失敗を報告することは、どうしても憎まれ役になってしまいます。まして、生真面目な三成は、武人には融通の利かない石頭と思われていたようです。
こうした職種の対立が争いを招き、人望のあるなしが勝敗を決したのでした。
④ 前田利家の死
③では、文人と武人(文治派と武断派)の対立にふれました。対立があっても現状を維持しているのは、どこかでバランスが保たれているからです。
豊臣家の場合、そのバランスをとる役が前田利家でした。前田利家 は 豊臣五大老 では家康に次ぐ力を持ち、多くの武将や大名たちから慕われていた人徳者でもありました。
また、彼自身、家康の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行にも理解をしてしていました。
家康の暴走を押さえ、五奉行の不満を吸収する利家がいたからこそ、豊臣家が何とか安泰を保っていたのです。
しかし、その利家も秀吉の死の8ヶ月後に亡くなります。これでバランスが崩れ、豊臣氏滅亡の大きな要因になったのでした。
どの世界でも、バランスをとっている存在がいるものなのです。
吉乃が荼毘にふされた田代墓地では、観音像が小牧城に向かって建っています。
さて、関ヶ原の戦いでなぜ徳川の時代になったのか?の続きです。
③ 文人 対 武人
前回は、家督争いが分裂を招いたという話でしたが、それ以前に基本的な対立がありました。
武士の政権は、戦いだけが仕事ではありません。財政管理、食糧の備蓄、武具の調達、調停などの政務もあり、そのための官僚もいるわけです。それが奉行であり、豊臣家の五奉行筆頭が石田三成だったわけです。
いわゆる武人にとっては、これら文人はおもしろくありません。命を賭けて戦った代償を、これら文人が秀吉に伝え評価されるのです。文人は命の危険がありません。
仕事とはいえ、人の失敗を報告することは、どうしても憎まれ役になってしまいます。まして、生真面目な三成は、武人には融通の利かない石頭と思われていたようです。
こうした職種の対立が争いを招き、人望のあるなしが勝敗を決したのでした。
④ 前田利家の死
③では、文人と武人(文治派と武断派)の対立にふれました。対立があっても現状を維持しているのは、どこかでバランスが保たれているからです。
豊臣家の場合、そのバランスをとる役が前田利家でした。前田利家 は 豊臣五大老 では家康に次ぐ力を持ち、多くの武将や大名たちから慕われていた人徳者でもありました。
また、彼自身、家康の勝手な行動に反発しており、豊臣五奉行にも理解をしてしていました。
家康の暴走を押さえ、五奉行の不満を吸収する利家がいたからこそ、豊臣家が何とか安泰を保っていたのです。
しかし、その利家も秀吉の死の8ヶ月後に亡くなります。これでバランスが崩れ、豊臣氏滅亡の大きな要因になったのでした。
どの世界でも、バランスをとっている存在がいるものなのです。