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『あるさか』令和3年5号 に拙稿が紹介されました

2021-04-20 06:50:41 | 日記

『あるさか』令和3年5号

全文を引用して紹介します。


国宝を決めたもの

                    名古屋芸術大学  土井謙次

高知城の棟札に懸賞金!

 ネットを眺めていたら、次の記事が目に飛び込んできた。

 高知城は国宝をめざすために、棟札などの建立時期を明確にできるものを発見した人に懸賞金を出すというのである。それも500万円!国宝に指定されるためには、正確な建立時期の証拠が必要だ。その証拠を募集しているのである。

 地元の誇るべき城が国宝になるのは、そこで暮らす人々には大きな願いであろう。この記事から、高知市民の思いが伝わってくる。同様に、福井県坂井市の丸岡城でも「一般社団法人 丸岡城天守を国宝にする市民の会が」つくられている。

 これらのニュースを聞いたとき、私はある教え子の話を思い出した。

 

 私は、かつて丹葉地区の小中学校で教員をしていた。平成元年に、初任の布袋小学校から布袋中学校へ異動をした。その年は、1年生の社会科授業を担当。脱線話に華を咲かせた。私は学生時代にヒッチハイクや国鉄のワイド周遊券で日本一周の旅をしたので、その時のエピソードを交えながら、地理や歴史の学習につなげていった。

 それに刺激を受けたのか、今回の主役であるN氏は、一年生の夏休みに、一人で電車で東北地方をまわるなどの冒険旅行をした。それを許した保護者の度量とともに、彼の行動力に驚いた。そのきっかけを作った自分に、些かの責任を感じていた。一回りたくましくなって帰ってきた彼の姿を見てほっとしたことを覚えている。その他、各務原市の炉畑遺跡など、紹介するとすぐに自転車で見に行くフットワークの軽さには感心していた。

 

 そのN氏は、現在家業を継ぎ、文化財を修復する左官などの仕事をしている。全国各地の国宝や重要文化財・社寺仏閣・民家等の貴重な古建築、文化財を、できるだけ当時の姿に近づけるように修復をしている。実は、これができるのは全国でも数人しかいない。著名なものでは、備中松山城や建中寺、ハリストス正教会など、近いところでは、明治村内の旧三重県庁舎、名古屋城本丸御殿も手がけた。

 以下は、そのN氏から聞いた話である。

 

 

5つめの国宝天守、松江城

 日本には、江戸時代から続く天守を持つ城が12現存している。その中で国宝に指定されていたのは、姫路城、犬山城、彦根城、松本城の4つであったが、2015年(平成27年)7月に島根県の松江城が5つめの国宝に指定された。

 松江城は、それまで正確に建てられた日付がわかっていなかった。記録では建築年の書かれた祈祷札の存在は知られていたものの、その札の行方がわからなくなっていた。その祈祷札を探すために懸賞金をかけて全国から情報を求めたのは、冒頭に述べた高知城と同様である。幸い、その祈祷札は松江神社で見つかったが、それが松江城のものであるという決定的な証拠がない。どうしたのか?

 

 

大口中学校の修学旅行先は松江城

 松江城が国宝になった決め手を述べる前に、大口町について触れておきたい(私はよく脱線をする)。

 松江市と大口町は積年の交流を経て、平成27年8月に『姉妹都市提携』を結んだ。その理由は、もちろん初代松江藩主、堀尾忠氏の父・吉晴公が今の大口町出身であったからだ(初代藩主を吉晴とする説もある)。松江城は、末次城のあった亀田山に堀尾吉晴・忠氏が築城した。

 大口中学校は、昨年までは修学旅行として東京方面へ出かけていた。しかし2020年はコロナ禍のまっただ中。密な東京はできれば避けたい。そこで、修学旅行を松江方面に変更したのである。松江城の他にも、出雲大社や古代出雲歴史博物館、宍道湖、水木しげるロードなど見所は多く、姉妹都市ならではの現地からの歓迎も受けている。大口中学校のHPからは、現地での心温まる交流の様子が詳細に紹介されている。

 https://www.schoolweb.ne.jp/weblog/index.php?id=2320049 

 出典 大口中学校HPより

 

松江城国宝の決め手は、釘穴!

 話を戻そう。松江神社で見つかった祈祷札が松江城のものとわかったのはなぜか?

 その決め手は釘穴だった。地階の2本通し柱の釘穴と、祈祷札の釘穴の位置が見事に一致したのである。まさに、国宝を決定づける釘穴だった!歴史を決めるのは古文書だと思っていた私は、そのシンプルさに驚かされた。

 

 昨年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、コロナでの中断はあったが、それ以後おおいに盛り上がった。特に第34話での比叡山の焼き討ちでは、明智光秀を自戒の念に苦しませた。

 この比叡山焼き討ちであるが、近年の研究では、そこまで大きなものではなかったことがわかってきている。時代考証を担当した小和田哲男先生は、YouTubeで「戦国・小和田チャンネル」を開いている。「麒麟がくる」放映日の翌日には、前日の内容について毎回解説してくださった。そこでも、比叡山の焼き討ちは、実は一部の限定的なものだったと語っており、それを「考古学の勝利」と表現された。これは、滋賀県教育委員会が行った調査によるもので、大規模な火事があった時に見られる、焦土の跡や人骨など物的証拠が見つからなかったことによる。当時の文献資料は焼き討ちを直接見た人が書いたわけでなく、噂話を誇張したのではないかという。

 

 N氏は言う。

「文献・記録の中には疑わしいものもある。歴史は、文献・記録以外でも、当時の人が残したものでも語られている。例えば当時の壁土、そしてその中にある竹などで編んである格子、麻紐などから色々な情報が読み取れる。文化財の修復の手法は考古学と同じ。残っているものから当時の様子を推理し、それが何を訴えているのかを読み取って修復に生かしている。」

 

 「歴史考古学」というジャンルがある。文献・記録でなく、遺跡・遺物を研究の対象とする歴史学のことである。 文献・記録の多くは勝者の歴史であり、敗者の歴史は曲げられていく。新井白石は徳川綱吉を、松平定信は田村意次を酷評した。これらの例を見るまでもなく、文献・記録から執筆者・編纂者による主観を取り除くことは容易ではない。文献・記録を全否定するつもりはないが、歴史考古学を組み合わせて、より確かな歴史に近付いてくれればと思う。

 松山城の国宝の決め手が、その象徴なのである。

 

 こうした、ある意味最先端の情報を教えてくれるN氏のような教え子と歴史について語り合うことは、社会科教師としての幸せである。


お読みいただき、ありがとうございました。


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