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科学と芸術【新実在論#7】

2022-11-08 06:10:50 | 哲学の窓

哲学チャンネル より 科学と芸術【新実在論#7】

哲学チャンネル

現代人が信じている世界 【新実在論#1】 https://youtu.be/1VDqBjXNKs8

形而上学と構築主義の誤り【新実在論#2】 https://youtu.be/qmORPg71CUY

物理主義と唯物論の誤り【新実在論#3】 https://youtu.be/_KPDh-sBGDc

意味の場【新実在論#4】 https://youtu.be/JtJyxmZ-vys

なぜ世界は存在しないのか【新実在論#5】 https://youtu.be/rM-HGDXNKEQ

宗教とは意味の付与である【新実在論#6】 https://youtu.be/FdGVuRYyLqw

科学と芸術【新実在論#7】 https://youtu.be/TNGlydNjLaQ

とっつきづらい哲学や心理学の内容を、出来るだけわかりやすく簡潔に お伝えすることを目的としたチャンネルです。 チャンネル登録、高評価、拡散、ぜひぜひ宜しくお願いいたします!

動画の書き起こし版 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 科学的な世界観は宇宙を支配する絶対的な法則を前提とします。 そのため、その世界観で生きる我々は無意識的に 「確固とした世界秩序の中で私たちは単に受動的な鑑賞者に過ぎない」 という感覚を持ち、生きています。 私たちは絶対的な法則によって表現された世界を受動的に鑑賞することはできるが それは私たちとは全く関係なく営まれている秩序である。 そこには「全てを包括した真理がある」という前提が隠されていて その前提からは全体主義的な傾向が生まれる危険性があるとガブリエルは指摘します。 芸術には、そんな我々に対して「意味」を突きつけ 民主主義的な認識論を提示するような働きがあります。 対象を認識する方法は一つだけではなく、 さまざまな視点によって可能とされるべきだということですね。 19世紀ドイツの哲学者で数理論理学や分析哲学の祖とされるゴットロープ・フレーゲは 「意味」と「意義」の違いについて問題提起をしました。 例えば「明けの明星」と「宵の明星」はどちらも金星です。 両者の意味(Bedeutung)は同じ「金星」ではあるものの、 それぞれの意義(Sinn)は違います。 「明けの明星」は夜明け前に輝く星であり、 「宵の明星」は夕方に輝く星です。 このとき「明けの明星」と「宵の明星」を同じものだとして良いのでしょうか? 明らかにそれらが同じものだと認識できるのは、我々が『金星』を知っているからです。 『金星』を知らなかった古代の人々はまさか「明けの明星」と「宵の明星」が 同じものだとは思いもしなかったでしょう。 新実在論では、意義の差異を『意味の場』の違いとして解釈します。 『科学』という意味の場に表出する「明けの明星」は「金星」と同一でしょう。 しかし「金星」を知らない古代人や子供にとっては また別の意味の場に「明けの明星」が表出しているのです。 ちなみに私たちの多くは「明けの明星」と「宵の明星」が『金星』だと知っていますが それを肉眼で確かめた人は少ないはずです。 この辺りにも科学への盲信が見え隠れしますね。 このように「目の前の対象がどのように現象しているか?」 ということを我々は普段考えません。 しかし芸術はそれを強制的に私たちに突きつけます。 芸術を見るとき、そこに何かの意味を炸裂させなければ その芸術は存在することができません。 ガブリエルはその代表的な例としてマレーヴィチの『黒の正方形』を取り上げます。 この絵には一般的に絵画と定義されるような情景が描かれていません。 そこにあるのは白地の背景と黒い四角形のみです。 ガブリエルはこの絵画こそ「対象がどのように現象するのか」を示していると考えます。 どんな対象も背景がなければ存在することができません。 つまり白い背景が意味の場で、黒い正方形が存在だと認識できるのですね。 そして、冷静に考えてみると『白い背景』もその後ろにある背景から浮き出ていると解釈できますそして、その背景もまた別の背景から・・・ つまり捉え方によっては『黒い正方形』は意味の場の無限連鎖への入り口なのです。 (ガブリエルがこういったわけではありません。あくまでも私の解釈) 芸術は何らかの形で私たちに意味との直面を提供します。 芸術を鑑賞しそれを味わうというのは 意味の現象の仕方を今まさに体感していることに他ならないのです。 当然彼は「芸術に触れることは素晴らしい」と考えています。 芸術に触れることで、私たちは意味に直面させられます。 そして、同じ対象に対してあらゆる捉え方考え方があることを理解します。 そのように他者が自分とは違う意味の捉え方をしていること自体を認めるのが 全てを包摂しようとする思考の脅迫を克服する第一歩だと言います。 とはいえ、これだけでは相対主義に陥ってしまいます。 共通の真理を見つけることはできず、真理はその人の中に閉じ込められる。 これをどう解決すれば良いのでしょうか? 「世界には絶対的な真理がある」という思想は全体主義を生み出します。 我々の生きる時代ではその先頭を科学が走っています。 「我々は構築された事柄しか認識できない」という思想は相対主義とニヒリズムを生み出します。現代における分断の根本原因はこのような思想によるものかも知れません。 とはいえ、認識論的な常識から考えると 両者のどちらかを採用するしかなさそうに思えます。 すなわち、「りんごがある」のか「りんごという観念がある」のか。 新実在論はこの問題を乗り越える可能性を持っています。 単独で「そのもの」である世界は存在しない。 そう仮定することによって、逆に無限の存在を規定できることになり その無限の存在は全て実在だとも見なすことができます。 「りんごという実在はある」し「りんごという観念もある」のです。 それぞれの存在が実在である以上(虚構ではない以上) 私たちは『それ』について互いに語ることができるわけです。 それは、相対主義やニヒリズムによって 孤独になってしまった人類を救う可能性があるものです。 非常に長く険しい道のりであるものの 私たちは無限に多くの意味の場の中を共に生きながら その都度当の意味の場を理解できるものにしていくべきだ。 ガブリエルはそう考えます。 そして、その活動以上に人間が求めるものはないとまで主張します。 次回は本シリーズのまとめとして 新実在論全体を振り返ろうと思います。 


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