哲学チャンネル より 資本主義によって人々が失ったもの【自由からの逃走#6】を紹介します。
ここから https://www.youtube.com/watch?v=T1HFy9T9i_U
エーリッヒ・フロム【自由からの逃走】を解説します。 #1 https://youtu.be/CpYhLjKpsb0 人間は合理的な生き物か?【自由からの逃走#2】 https://youtu.be/NjjfXBmo-5E 人類はいつ【個人】を手に入れたのか?【自由からの逃走#3】 https://youtu.be/X-9s6wJ0w9g 中世の人々と最後の絆【自由からの逃走#4】 https://youtu.be/WKtBCCdKRAc 宗教改革の功罪 【自由からの逃走#5】 https://youtu.be/6HfMk8vZfj4 自由からの逃避のパターン【自由からの逃走#7】 https://youtu.be/dbZ4VYAfXb0 本当の自由とは?【自由からの逃走#8】 https://youtu.be/m1Q65Gb56XU 【自由からの逃走】まとめ 書評 https://youtu.be/IRLJjZsqnlY 愛に対する勘違い【愛するということ(前)】 https://youtu.be/o8hvClzzXzg 本当の愛を手に入れるために【愛するということ(後)】 https://youtu.be/lcCSbOuFb5c ※書籍 自由からの逃走 https://amzn.to/3vbD6te 愛するということ https://amzn.to/3qy2Qwi
動画の書き起こし版です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんにちは。哲学チャンネルです。 宗教改革に端を発するカトリックとプロテスタントの分離により 中世社会の伝統的な絆から、人々は解放されました。 そして自由を勝ち得たのと同時に、 人々は孤独感を感じ、それを埋めるために 世俗的な成功を求めるようにもなりました。 自由にはこのように 独立の感情と、孤独の感情といった形で 矛盾した二つの傾向が同じ原因から生まれる性質があります。 フロムはこれを【弁証法的な性格】と表現しました。 さらに彼はいくつかの自由における弁証法的性格を指摘します。 例えば信仰の自由。 一定の宗教を強制的に信ずることから自由になった結果 人々は自然科学で証明されていないものを信ずるという内面的能力を喪失しました。 例えば言論の自由。 どんな発言も公共の福祉に反しない限り守られるようになった反面、 自分が話していることの大部分が、他の誰もが話しているようなものであることを忘れてしまい 自分の頭で考える力を獲得しづらくなりました。 例えば権力の束縛からの自由。 目に見える権力からは解放されましたが その反面、我々は他人の期待(世論や常識)に一致するように注意を払っています。 外的自由の獲得はいつの時代も内的な束縛を生み出してきました。 人類はより多くの自由を獲得してきたわけですが その後に必ず新しい敵が現れるのです。 資本主義は自由を増大させました。 人間はあらゆることから自由になったといえるでしょう。 プロテスタントの精神は 資本主義においての個人を肯定したものの 同時に自己否定と禁欲主義も導きました。 前回の動画でも触れた通り、 根本には『無力で無意味な個人』が存在していて だからこそ禁欲的に仕事に従事することが求められたのです。 経済活動が生活そのものだった時代は終わり 経済活動や成功それ自体が目的となりました。 つまり、資本が人間を上回ったのです。 この要素が資本主義の発展に大きく寄与したのは疑いようがないでしょう。 客観的に見ればこの変化は人類の進歩に強烈に貢献したわけですが 主観で見ると個人が個人を超えた目的のために働き 人間が作ったシステムの召使いになったことを意味します。 これらの変化はまず、競争が激しかった資本階級で醸成され それが権力による教育で労働者階級にも広がりました。 一般的に資本主義は利己心を原動力にするといいます。 それぞれの人々が利己的利潤を目的に自由に動くことで 全体の経済が発展するという仕組みです。 つまり自愛の精神といえるでしょう。 一方でプロテスタントの教義の中心は非利己主義です。 徹底した自己犠牲を重視します。 この二つは矛盾するように思えてしまいますね。 事実、ルターやカルヴァン、カントやフロイトは 利己心は自愛であり、自愛は罪であると考えました。 利他的な他者愛こそが至高のものであると。 フロムはこれを誤った考え方であるといい、 利己心と自己犠牲は矛盾せずに同居するとします。 フロムは利己心は自愛の欠如であるといいました。 自愛が欠如していることで不安が生まれ それを埋めるために利己的な行動をしているのだと。 だから両者は矛盾しないのです。 近代化の影響によって、人々はそれまでよりも自分を愛せなくなった。 その自愛の欠如が利己的な行動を加速させ それが資本主義の原動力になったと考えたのです。 また、近代人が関心を持っている自我は本当の自我ではないともいいます。 近代人が関心を持っているのはあくまでも社会的自我です。 社会的自我とは『社会に置かれた人間の客観的な社会的機能を主観的に偽装したもの』 つまり社会用の自分のことですね。 現代人はこの社会用の自分が自我として表出していて 本来の自我は無意識下に追いやられていると考えます。 人々は社会的な自我の欲望を埋めるために利己的に行動しますが その欲望と本来の自我のそれとの間には大きな溝があります。 本来の自我が求めていることを真っ直ぐに感じられないのは 社会が社会的健康性を強要するからです。 これを強要と感じられればまだ良いのですが、 多くの場合は無意識に刷り込まれています。 これは船に穴が空いているのに、 本当の穴ではなくて、見せかけの穴を必死で埋めようと している状態に似ています。 だから問題は永遠に解決しないのです。 近代以降、このようなギャップによって様々な問題が現れました。 直接的な人間としての性格を失い かけひきと手段の精神によって行われるようになった人間関係。 人間はある意味商品となり、取引されるようになりました。 そこで評価される価値は本来の自分の価値ではありません。 自分は何者なのか?これを満たすために物質が必要になりました。 世の中はその欲求を満たすための広告だらけ 自分の仕事が誰のためのものなのか見えなくなりました。 世界はより広くなり全てを把握することは出来なくなりました。 それでいて格差は広がるばかりです。 このような状況は以前に解説した中世末期と非常に似通っています。 キルケゴールが描いたような 個人の無力感と孤独感による『絶望』 しかし、この個人の孤独感と無力の感情を普通の人は認識していません。 それらはあまりにも恐ろしいからだとフロムはいいます。 社会的な自分と本来の自分との間の恐ろしい距離から目を逸らすように 人々は社会的な成功や束の間の楽しみなどでお茶を濁しているのです。 しかしいつまでもそれに耐えることなど出来ません。 自由の重さが限界に達したとき、人は逃避します。 次回は自由から逃避する際のいくつかのパターンについて解説したいと思います。 以上です。