FREAKY 13 DEAKY

酔いどれの誇りと踊る熊へ

スコセッシの「沈黙」と遠藤周作の「沈黙」

2017-01-26 11:27:34 | 日記
水曜日の20:35からの
観ました。
会場はパラパラという具合だったけど…

自分と同じテンションの観客ばっかり。

「よし!隅々まで観てやるぞっ!」の気合が漂ってました。イイ空気で観れた。

さて、作品は…というと。

今年劇場鑑賞第一作なんです。1月って忙しすぎるよ…(+_+)

遠藤周作「沈黙」は小学六年の国語の時間以来だ…

踏み絵のシーンは憶えていた。

スコセッシは「最後の誘惑」でバッシグを受けていてその時にこの原作と出合っている。

でも、自分が感じていたキリスト教に対しての疑問や心情に応えてくれたのがこの原作本だった。

信仰は心の底から湧き出てくるもの(遠藤周作著「神と私:人生の真実を求めて」より)

だれも奪うこと、捨てさせるは出来ない。

聖書にも出てくるけど偶像を崇拝してはならないというくだりもある。

だから強制的に踏み絵をしても、十字架に唾しても棄教したことにはならないはず。

だけれどもお役人たちは心理的に突いてくる。

弾圧。

いよいよロドリゴは声を聴く。「あの人」の。

奇跡が起こったのか?幻聴なのか?自分を正当化する都合の良い心がそう聞こえさせたのか?

最後はフェレイラと同じく踏み絵を実行してしまう。

しかしそれは裏切り行為なのか?背信なのか?

やっぱり自分自身とどう向き合って生きていくのかに全てはかかってくると思った。

何も知らない他人はそう見るだろうし軽蔑するだろう。組織はそう判断するだろう。

しかし断罪するのは、人間の役割ではない。

信仰を捨てたのかどうかは、結局自分の心を持っている自分自身にしか本当は分からないこと。

これはスコセッシが「最後の誘惑」完成後の風当たりの強い時期に遠藤周作の「沈黙」を通して

自身に問いかけ続けたことなのかもしれない。

沈黙していたのではない、あなたと共にいたのだ。

この声をどれだけリアルに実感し続けることができるのか。

厳しい弾圧に揺らぐ中、人々から投石される中、どれだけその気持ちを持ち続けることが出来るのか。

だから、信条とか信仰というのはとても厳しくてキツイものなのだ。

生易しいものじゃないということ。

そんなことをこの映画で改めて認識することができた気がする。

内側から湧き出てくるものは誰にも見えない。自分自身以外。


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