やっぱり抜け道や近道は無い。
生きていくには必要なプロセスを通過しないと全うしたことにならないものな…
その経験をするために生まれてきたのかどうかは分からない。
偶然と必然の論議もしたくない。
ただ自分の感覚としてこれと出合うことが俺には必要だったと感じられればそれでよし。
やっぱり抜け道や近道は無い。
生きていくには必要なプロセスを通過しないと全うしたことにならないものな…
その経験をするために生まれてきたのかどうかは分からない。
偶然と必然の論議もしたくない。
ただ自分の感覚としてこれと出合うことが俺には必要だったと感じられればそれでよし。
駅構内で歩行の邪魔になったからとベビーカーに乗っていた1歳の赤ちゃんを拳で殴りつける事件があった。60代の男だ。
知的障害児施設で50代の元職員の男が子供の陰部にハサミで切りつけた事件(本人は否定)があった。
いずれの被害者は弱者だ。
前々から気になっていたことがある。
世の中が冷え切った弱者しわ寄せの流れになっている気がする。
人々の幸福感や余裕やゆとりのスペースがどんどん無くなっている。
科学的な立証は出来ないので一個人の独断と偏見と言われればそれまでだが、
群衆の意識の底の底に流れているドロッとした不安感や怒りや嫌気が深層海流のように
流れているその表れなのではないか。
苛立ちを自分よりも弱いものにぶつける。
誰でも良かったと言っても必ずターゲットになるのは女子供やお年寄りやハンディキャップを持った人たちだ。
誰でもイイなんて嘘でしっかりターゲットを決めているのだ。
弱者が弱者を襲う。
それは昔からあったことかもしれないが、ここ数年でこの国は噴火するように露呈し始めている気がする。
考え過ぎだろうか(-_-;)?
さっきも仕事中に後輩から
業界では新しい会社の凄いやり方の立ち話をした。
今携わっている業界の裏側を暴露してお金の流れを説明しながら自分の会社の信用を上げる、そんな手法で
展開している会社だ。
当然既存会社や老舗の会社は怒り心頭。
今までの業界内での暗黙の了解や慣例をひっくり返すような手法だからだ。
しかし。
うちらみたいな弱小団体はこの会社は敵にはならないと直感した。
むしろ強い味方になるのではと…
弱小団体はもともと業界内で大手老舗団体からいいようにやられているからだ。
自分で0から突破できないなら活きのイイ若手企業の勝ち馬になるのはアリだと思う。
他力本願で短命に終わるか、根性で(?)流れに乗っかっていけるかは我々次第なのかもしれない。
でもこの縁を取りこぼさない様に大事にすくって運を引き寄せようかとも思っている。
ヴィレバンで買った可愛いワッペン。カバンに入れていつも持ち歩く。
[一撃]↓
逃げ回りながら世の中を渡ってる人はいつまでも目的地にたどりつけない。(+_+)
拒否をやめることが成長の一歩なのか…
マメにブログを書いていると感じることあり。
書きたい衝動だけが先走りして書くことが目的になってしまいそうになる。
そうするとネタとして世の中のオカシイと思うことや日常で体験したハラが立ったことなども書きたくなってくる。
批判を書きたくなる。
でも5年くらい前からブログで遊びだして自分に課したルールとして仕事内容や宣伝をしない、そして世の中の批判をしないというのを信条とした。
それやったらキリがないからだと思ったから。
そういうのは個人の日記で充分とも思ったのでそれで済ませている。
政治批判、犯罪、どこそこのお店や会社のこと等々…
自分を棚に上げていればいくらでも「ケシカランブログ」は書ける。
大好きな映画や本のはなしでも「惜しい!」と思うことは正直に書くけども、結局スキッ!!!ていうことに着地する。
そういう流れで書いていければブログとのイイ付き合いが出来るかな。
なんでだろうと思う。
ペンとノートで夜寝る前に日記を書いていれば十分と思えないのか。
やっぱり独り言などではなく世間と繋がりたいと思っている。のかもしれない。
だけれども大声で怒鳴ったりはしたくない。
なんだろう…例えば立食パーティーで隣りの人に見ず知らずだけども陳列している料理を見ながら「これ美味しそうですね~。」
くらいのノリで言葉をかけているみたいな感じでブログが発信できればなと思うのです。(#^.^#)
やはりイイ映画やイイ本に出合えた時にはそんなこと思うのです。