この映画の出だしの場面はそうくるらしい。
レプリカント(アンドロイド)も人間も皆自動販売機で弁当を買って孤立して黙々と食べる。
35年前に産声をあげたこの映画は製作当時からトラブル続きの連続であった。
ようやくこの世にお目見えする時にはスタジオから見捨てられた呪われた子として誕生する。
勿論、米国で大コケ。
日本でも同じだった。
しかし、日本の家電メーカーの大躍進時代。
ビデオデッキの普及がこの呪われた子を「時代の申し子」に仕立て上げた。
日本の映画小僧たちがこの「機械」を通して発見し始めていった。そして囚われていった。
町山氏曰くカルト映画の本家本元に。
中学3年生だったぼくはこの映画にまつわる噂は聞いていた。皆は「ハン・ソロ」を観たかったのに「デッカード」はないだろうと。
後の「インディジョーンズ」が一番合っていると言っていた人たちをよそにぼくは密かに「デッカード」に熱い視線を向けていた。
いったい、何に目が離せないのか?
<異形の悲しみ、異形の切なさ>そして<孤独>だ。
この雰囲気が全編に漂っている。
人間よりもレプリカントになりたいと素直に思ったものだ。病んでいたのか?いやそうじゃない。むしろまともだったのだろう。
出来るのか?普通の人間の生活が。普通ってなんなんだ?普通?
矢継ぎ早に飛んでくる「疑問」「疑問」…謎の余白が心を捕えて離さない。
<映画とはまるで事故のようにあるべきだ。>
なるほど、それが神業としか思えない画面を作り上げ物語がぼくの心の食い破っていくのかもしれない。
<観客を圧倒させることと楽しませることは別物だ>
そうかもしれない、あるいはそうでないかもしれない。
<前作の疑問点に対する完全なる答え>
が、提示される。完全に。
親から見捨てられた子が時代の申し子になり、申し子が人の親になる時代が来た。
…
…
…
……なんだか、
憑りつかれたように書いたが、
まだこの映画を観ていないのだ。
これでいい。
これは一番夢中になって映画館に通っていた時代の自分の姿だ。
まだ観ていないのに始まっているのだ。