人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 夢窓疎石(国師) ーー

2017-12-13 10:12:52 | 日記

夢窓疎石は1275年の生まれ、出身は伊勢です。宋からの渡来僧と思っていましたが違いました。留学もしてませんから、彼の修行は建長寺や円覚寺で蘭渓道隆の弟子の住持に参ずること、さらには無学祖元の弟子である高峰顕日を慕って那須の雲巖寺や鎌倉や甲斐の諸寺で行われました。蘭渓道隆が来日し建長寺を創建したのが1253年。夢窓疎石が修行していた13世紀後半には、これだけの名僧を育てる環境が国内に整備されていました。

さて夢窓疎石の生涯をみると、その人生は1333年の鎌倉幕府滅亡までの時期、そのときすでに60歳近い年齢です。それからは1351年に76歳で亡くなるまでの時期に大きく分けられます。なによりも後醍醐天皇や足利尊氏・直義兄弟と関係した建武政権樹立後の20年間の京都での活躍が目立ちます。一方、鎌倉では北条高時の招きで浄智寺、円覚寺の住持になり、瑞泉寺では写真にある庭園を造ったり、徧界一覧亭でのサロン的交わりを『徧界一覧亭記』をまとめ、後世に遺しています。

もう一つ。『夢中問答』という問答集。夢窓国師が、足利直義の問いに答えた法話を記録したものですが、岩波文庫版の校訂者佐藤泰舜氏によれば、「全編九十三の問答は、各独立しながら前後脈絡を存し、しかも浅深の次第をもって、攘災招福の俗信より仏教の正信正智の問題に進み、中程よりは専ら禅門の法義に転じ、懇切平明に禅の極致を談じて余蘊なきの感がある。」と解説しています。いささか難解な文章ですが、雰囲気は伝わってきます。またここに出てくる足利直義は歴史上は後醍醐天皇の皇子護良親王を殺害した悪漢ですが、この問答集を読む限り、後世に悪評が残されているのが気の毒な気がします。

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