人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 山崎方代と吉野秀雄 ーー

2017-12-10 13:21:31 | 日記

鎌倉の瑞泉寺の山門前には吉野秀雄(1902-1967)と山崎方代(1914-1985)の歌碑が仲良く建っています。このブログでも以前に吉野秀雄の歌碑のことは紹介しました。その頃はまだ山崎方代との関係もよく知らず、方代の歌碑は見過ごしていましたが、吉野秀雄の歌集『含紅集』を読み返すと、二人の交流の様子が知れるいくつかの歌がありましたので紹介します。一つは、亡くなる1年前の昭和41年のもの。あとは未定稿・最後の歌ふたつ。

   われ死なば山崎方代かなしまむ失恋譚の聞き手失くして

   日雇ひにひと日あぶれし方代が摘みし山菜に春蘭まじる

   わがために春の菜採ると山沢を駆けめぐる君人かそも魔か

吉野秀雄からみれば年齢が一回り違う方代ですが、これらの歌からは、病床を訪ね見舞う方代の姿や方代に注がれる深い愛情が感じられます。

一方、瑞泉寺にある山崎方代の歌碑は、

   手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る

山崎方代は戦争で負傷し、傷痍軍人として各地を放浪し、晩年は鎌倉の手広に暮らしました。けっして恵まれた暮らしをしてはいなかったと思いますが、吉野秀雄の歌からはいつも手土産を持って訪れる様子が覗われ、方代の律儀な人柄が感じられます。

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鎌倉を知る ーー 足利基氏 ーー

2017-12-10 10:35:37 | 日記

鎌倉国宝館で、この12月3日まで足利基氏没後650年記念「鎌倉公方足利基氏」展が開催されていました。鎌倉の歴史上の人物といえば、源頼朝、北条政子やせいぜい北条氏がつとめた歴代の執権くらい。鎌倉幕府滅亡後にはほとんど関心がなく、鎌倉公方?足利基氏??程度の知識でした。

足利基氏(1340-67)は足利尊氏の子で、兄の義詮は室町幕府二代将軍です。鎌倉幕府滅亡後、最初は義詮が鎌倉を治め、その義詮が将軍になるとともに幼くして鎌倉に下向し、初代鎌倉公方になりました。鎌倉国宝館には基氏の坐像も展示されていましたが、27歳の若さで亡くなっているのにその姿は老成し貫禄も感じられます。

足利基氏の業績は、政治の拠点が京都に移った後、鎌倉公方として鎌倉を含む関東の安定化を図るとともに、夢窓国師の弟子である義堂周信を鎌倉に招き、五山文学や禅の普及を奨励し、この地の文化興隆に努めたこと。人物像は「武勇の誉れ高く慈悲深い人物、正直者で和歌の嗜みもある」(『塵塚物語』)と評されています。実際に『新拾遺和歌集』には次の歌が載せられています。

    つるか岡こたかき松をふく風の雲井にひびく万代の声

義堂周信に深く帰依し、6年にもおよぶ入間川在陣中には義堂のために鎌倉瑞泉寺に赴き、偏界一覧亭で花見を催しています。写真は足利基氏の菩提寺であるその瑞泉寺で写したもの。多くの文学者に愛され、昔と変わらない心が安らぐ佇まいは、何度でも訪ねてみたくなるお寺です。

 

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