鎌倉駅西口から今小路を寿福寺方面に歩いて7~8分位。その寿福寺の先に英勝寺があります。そのまま進めば化粧坂や亀ヶ谷坂。鎌倉時代は山ノ内に抜ける道筋で賑やかな場所だったと思います。英勝寺そのものは創建が寛永一三年(1636年)、水戸徳川家にご縁のある浄土宗の尼寺です。江戸時代の鎌倉といえば、往時の賑わいはほとんどなく、鶴岡八幡宮寺、建長寺、円覚寺、光明寺などを除いた諸寺は寂しい限りであったと、水戸光圀の鎌倉日記に書かれています。そんな中、創建以来、水戸徳川家の御姫様が住持を勤めた英勝寺は鎌倉でも異色の存在でした。
英勝寺と水戸徳川家の関係はと言うと、徳川家康から100年余り前、上杉家の家宰であった太田道灌に遡ります。英勝寺の場所は太田道灌の屋敷跡。その家康は関東支配に際し、没落した関東の名家の救済に力を入れ、そのひとつが太田家。道灌5代の重政、その妹のお八が家康の側に仕えることになりました。寵愛を受けたお八はお梶と改名し、その後は「お勝」と名のりました。その「お勝」は家康の子供、水戸頼房の養母となり、8歳の頼房を育て上げ、家康逝去後は出家して英勝院となり、太田家ゆかりの土地に寺を開いたわけです。
その英勝寺の山門の運命も波乱にとんだもの。関東大震災で倒壊し、仏殿、祠堂、鐘楼などの建物は修復されましたが、山門は直すお金がなく二束三文で焚き付けとして売られることになりました。そこに現れた救いの主が三井銀行の役員を退任したばかりの間島弟彦氏という篤志家。小町の自邸に2,000円という巨費を投じて復元。一時、他の人の手に渡ったものの壊されることもなく、平成13年に英勝寺に返還、平成25年には国重要文化財に指定されました。
山門をご覧いただくと分りますが、小ぶりながら、随所に細工が施され部材の数も半端な数ではありません。このバラバラになった部材をレゴを組み立てるように復元する技の凄さと労力、それとそれを我慢強く援助した篤志家がいたこと。文化財や芸術・芸能を後世に残そうとするパトロンの存在は大きかったですよね。40年も経たないビルを簡単に壊してしまう人たちの神経が分りません。