建長寺境内、方丈を過ぎ半蔵坊に行く途中に正統院があります。普段は非公開ですが、山門までに続く杉並木が美しく、どちらかというと開放的な空間が広がる建長寺境内の中では近づきがたい雰囲気の場所です。
先日はじめてこの正統院に昇堂する機会を得、この塔頭の由緒を学ぶことができました。建長寺十四世を務めた高峰顕日の塔頭とのこと。時代は鎌倉後期、北条貞時が執権の頃でしょうか。高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子と言われていますので、鎌倉幕府六代将軍である宗尊親王や後深草天皇、亀山天皇とは兄弟の間柄になります。従い正統院にある高峰顕日のお墓は宮内庁が管理しています。本堂には高峰顕日の頂相彫刻(国重文)が安置されていますが、この像は1316年に示寂する一年前に彫られたもので、現在まで生前に近いお姿が残されています。
記録では京都の東福寺円爾のもとで出家し、1260年に兀庵普寧の侍者として鎌倉の建長寺に下向しました。以後は那須の雲厳寺の再興、無学祖元より印可を受けるなど、ずっと鎌倉を中心に活動しています。高峰顕日が後嵯峨天皇の皇子であれば、宗尊親王より一つ年長の兄、10歳で鎌倉に下向した宗尊親王を支えるために僧籍に入り、鎌倉に下向したかもしれません。
そしてもう一つ。『とはずがたり』の作者の存在が気になります。岩波文庫の『問はず語り』(玉井孝助校訂)によりますと、作者は大納言源雅忠の娘。後深草院の寵愛を受ける一方、西園寺実兼や太政大臣藤原兼平などの子を産んでいます。あまりにも大胆な現実暴露本であったゆえに昭和25年まで宮内庁書陵部に秘匿されていたと思われます。もし書いてあることが事実なら、作者が産んだとされる皇子(夭折したとありますが)は伏見天皇や鎌倉幕府八代将軍久明親王とは兄弟となるはずです。
作者が鎌倉下向のため京都を発ったのは正応二年(1289)二月。江の島に三月二十日すぎに着き、極楽寺に泊まるなどして鎌倉に入っています。その後小町殿(惟康親王)の世話になり鶴岡八幡宮寺の放生会や流鏑馬を見学しています。さらに九月の惟康親王の失職・京都上洛の様子や十月の久明親王の鎌倉下向のこと、執権貞時の依頼で新将軍邸のしつらえを見分することなども書かれ、得宗家との深い関係も推察されます。この作者は朝廷内での持明院統と大覚寺統の動きを知っており、将軍交代のタイミングに併せ善光寺詣でと称して鎌倉に下向したのではないでしょうか?
歴史はいろいろ想像するのが楽しいですね。ただし以上の推論はあくまでも私見ですから信じないでください。